関連スレ:開かない扉の前で【その1】
     開かない扉の前で【その2】
     開かない扉の前で【完結】



349: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:04:07.22 ID:kC6D1Zgdo



 映画の予定を繰り下げて篠目あさひと喫茶店に入ったのは、たいした理由があってのことじゃなかった。
 
 それでもそのまま映画館に入る気にはなれなかったし、篠目も僕に聞きたいことがあるような顔をしていた。
 ただひとり、予定を狂わされたすみれだけが少し不機嫌そうにしていたけれど、
 僕の都合を考えて仕方ないと思ってくれたらしい。最後には黙っていた。

「あなた、誰?」

 と、街で僕と顔を合わせた直後、開口一番に篠目は言った。

「誰、と言われても」と僕は困ってしまった。

 とにかく落ち着いて話でもしてみようじゃないか、と僕らはどちらが言い出すでもなく喫茶店に入った。

 別に聞きたいことがあるわけでもない(こっちの篠目の話を聞いたところで、僕には何の関係もない)。
 それでも話す気になったのは、単に興味が湧いてきたからだ。


350: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:04:41.34 ID:kC6D1Zgdo

 人には、人生のうちにどんな努力をしても絶対に顔を見ることのできない相手がひとりだけいる。

 それは自分自身の顔だ。 

 鏡は左右が反転している。映像を撮っても写真を撮ってもそれが「実際の顔」とは言えない。

 そんな自分の動いている姿を、僕はさっき目の当たりにしてしまった。

 そのせいで、なんとなく、この世界にやってきたことは、僕にとって何か意味のあることなんじゃないかという気がしてきた。
 ただの誇大妄想かもしれない。

 そして実際にテーブル席で篠目と向かい合って座ると、彼女が自分のいた世界の彼女とどう違うのかわからなくなってしまった。

「あなた、誰?」

 そうもう一度訊ねてきた篠目の様子は、やはり僕の知っている彼女とさして変わらないように思えた。

「碓氷遼一」

 と僕は言う。

「うそ」

 と篠目は言う。

 まあ、そういうだろうと分かっていたので、

「だよね」

 と頷く。


351: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:05:20.64 ID:kC6D1Zgdo

「似すぎてる」

「うん?」

「兄弟では、ない」

「兄弟にしては似すぎている」って意味だろうか?
 
「あなた、碓氷の何?」

 何、と来た。
 難しい質問だった。

「逆にひとつ聞いてもいい?」

 篠目は怪訝げに眉を寄せただけで返事をよこさなかった。
 彼女らしいと言えば彼女らしいけれど、そんなふうに警戒してみせる篠目の表情をあまり見たことがなかったから、少し意外に思う。

「きみは、碓氷遼一のなに?」

「わたしは……」

 言葉に詰まったあと、篠目はひらひらと店内に視線を泳がせた。
 広い店じゃない。僕ら以外の客は二、三組。店員がコーヒーを運んでくる。僕は何も言わずに口をつける。



352: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:05:46.79 ID:kC6D1Zgdo

 篠目はそれから何も言わなかった。続く言葉はいつまで待っても出てこなかった。
 答えが浮かばない、というふうではない。

 言いたい答えがたしかにあるけれど、言葉にしたら嘘になってしまうというような表情で口をつぐんでいる。

 僕は質問を変えることにした。

「さっき、碓氷遼一がいたね」

「やっぱり違うんだ」

「なにが?」

「他人事みたいな言い方するから」

「残念だけど、あれもどうやら碓氷遼一だ」

「……」

 話してもよかったし、話さなくてもよかった。

 篠目を前にすると不思議な気分になる。
 この世界の人間に対して、僕は何を言ってもいいし、何も言わなくてもいい。
 なぜなら、本来関係がないから。

 自分が圧倒的優位者になったような、万能感――錯覚。


353: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:06:21.91 ID:kC6D1Zgdo

「篠目あさひ」

 と、僕は声に出してみた。

 篠目は目を細めた。

「……あなた、誰?」
  
 本当に、篠目だ。
 彼女は、思考の道筋を言葉にしない。

 僕は、その思考を結論から逆流して推測するしかない。

 何も語らずに死んだ人間の行動から、何をしようとしていたのかを推測しようとするみたいに。

 どうして名前を知っているのか、と彼女は思ったのだろう。
 だから、何者なのか、と訊ねてきた。

「図書委員?」

 と僕は訊ねてみる。

 篠目はさすがに不気味に思ったみたいだ。僕はなんだかおかしくなって笑った。

「遼一、性格悪ーい」

 となりで退屈そうにコーヒーを飲んでいたすみれが口を挟んできた。
 僕もさすがに自重することにした。



354: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:06:51.19 ID:kC6D1Zgdo

「女の子いじめたいだけならもう行こうよ。わたし、映画見たいんだってば」

「ん。まあ、それでもいいんだけどね」

「……あなたたち、何なの?」

「言わないよ」とすみれは言った。

「ていうか、言ったって信じないでしょ?」

 まるで悪者みたいな台詞だ。
 僕らがさっきから言っている言葉は。

「それ以前に、あなた、遼一とどういう関係なの?」

「委員会仲間じゃないの?」

 すみれの言葉に僕が適当な返しをすると、篠目は意外そうな顔をした。

「……違う。学年が一緒なだけ」

「……へえ。なるほどね」

 こっちの僕は図書委員じゃないらしい。納得がいくといえばいく話だ。


355: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/23(水) 23:07:19.61 ID:kC6D1Zgdo


「……話が進まない」

 焦れたように、篠目は吐き捨てる。僕は笑いだしたくなる。

「なにせ、話を進めたいなんて思ってないからね」

 それでも、篠目は席を立たない。

 知り合いに瓜二つの人間が、自分を知っている。 
 彼女じゃなくても、投げ出したら落ち着かないだろう。そう思うと不憫な気もしてくる。

「篠目はさっき何をしてたの?」

 昔からの友達みたいに、あっちの篠目に話しかけるよりずっと気安く、僕はそう訊ねた。

 篠目は少し考え込むような様子だったが、このままでは埒があかないと思ったのか、結局話し始めた。

「碓氷を見てた」

「……なぜ?」

 篠目は答えない。

「好きだからでしょ」とすみれがあっさりと言う。

「あなた、ストーカー?」

 篠目は答えない。
 否定すらしないのが答えのようなものだった。




358: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:49:45.97 ID:AU9ivydQo



 そこからべつに話が弾むわけもなくて、篠目と僕らは別れようと思ったんだけれど、
 お互いに別れるためのきっかけもなくて、最後にはなぜか彼女を映画に誘っていた。

 ここまで来ると僕の気まぐれにすみれも慣れきっていて、諦めたように「どうぞお好きに」と笑っただけだった。

 別に悪い映画でもなかったけど、篠目は「期待はずれだった」と観終わったあとに肩をすくめた。

「観たかった映画なんだろ」

「観なかったほうがよかったかも」

「なんだかそれって寂しいな」

「うん。だから、観なければよかったの」
 
 僕とすみれの会話を横で聞きながら、篠目は戸惑ったように視線を泳がせていた。
 あの浮世離れしたような態度とは違う。
 
 まるで、ごく普通に、コミュニケーションが苦手な女の子みたいだった。


359: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:50:21.99 ID:AU9ivydQo

 僕たち三人は、それからまた喫茶店に入った。

 別に話したいことがあったわけでもないけど、別れるきっかけも掴めなかった。

 沈黙を持て余しながら、僕は、ずっと気にしないようにしていたことについて考えてしまった。

 学校のこと、バイトのこと、家のこと……。

 そのあたりのことは、べつにどうでもいい。
 誰かが迷惑しているかもしれない、誰かが割りを食っているかもしれない、でも、そんなのは俺の知ったことではない。
 
 気がかりなのは、ひとつだけ。

 愛奈が、どうしているのか、と、それだけ。

 でも、それだってきっと、罪悪感が後付した心配に過ぎないのかもしれない。
 自分の気持ちなんて、自分でもよく分からない。


360: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:50:59.84 ID:AU9ivydQo



 ずいぶんと長い沈黙を破ったのは、篠目だった。

「ねえ、あなたたちは、何者なの?」

「……何者?」

 何者。何者なんだろう。それもよくわからなかった。

「そんな質問、するだけ無駄だよ」

 そう言ったのはすみれだった。僕もそう思った。

「……そうかもしれない」

 さっきまでとは違う様子で、篠目は頷く。

「ねえ、あなたたち、ひょっとして、何か困ってる?」

「……どうかな。困っていると言えば、困っているかもしれない」

「実はね、わたしも困ってるの」

 そうですか、と僕は思った。それ以外に感想の見つけようがなかった。


361: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:51:27.30 ID:AU9ivydQo

 篠目は僕らにかまわず話を続けた。

「あのね、碓氷――もうすぐ殺されるの」

「……」

 はあ、と思った。

「殺される?」

「うん。ねえ、最近この街で起きてる殺人事件について、知ってる?」

 急に、物騒な話になってきた。

「学生が殺されてるの。四人。全部夕方の四時頃。ナイフで刺されて。何回も何回も刺されて」

「……」

「次は碓氷が殺される」


362: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:51:52.32 ID:AU9ivydQo

「……ちょっと待ってもらっていい?」

「なに?」

「犯人は捕まってないんだよね」

「そう」

「誰が疑わしいとか、そういうのは?」

「なんにも分からない」

「じゃあ、どうしてきみは次に狙われる人が分かるの?」

「夢で見たから」

 篠目は自分でもちょっと笑いながら言った。

「全部、夢で見たの。殺される人の顔、殺される瞬間の出来事。夢で見た通りの人が、夢で見た通りに殺された」

「……」

 からかっているんだろうか、と、少し思う。


363: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:52:21.26 ID:AU9ivydQo

「今は……碓氷が殺される夢を見る」

 すみれがバカバカしそうに笑った。

「だってよ、遼一。どうする?」

「そうだね、どうしようね」

 本当に、どう反応していいのか、困った。
 
「あんまり、いい気分はしないかもしれないな」

 べつに篠目の言うことを真に受けたわけじゃない。
 夢で見た……? 誇大妄想かなにかとしか思えない。
 
 でも、僕らは既に不思議なことに巻き込まれていて、だから、彼女の言葉を否定する理由もはっきりとは見つけられない。

 だからといって、それが自分にとって重大なことだとは、あまり思えない。
 どうしてだろう。

「……僕たちも困ってるんだよ」

 篠目は、僕の顔をじっと見つめてくる。

「実は僕たちはこの世界の人間じゃないんだ」

 と、僕もやはり、言いながらその言葉のバカバカしさに吹き出してしまった。
 この世界の人間じゃない。おもしろい。

「並行世界って言って伝わるかな。とにかく、こことは違う世界から来て……こことは少し違う世界から来て……放り出されたんだ」

「……帰れないの?」

「……そうだね」

 帰りたいかどうかも、よくわからない、と、そう言ったら混乱してしまうだろう。


364: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:52:54.45 ID:AU9ivydQo

「当然、この世界には僕の居場所に僕がいて、この僕の居場所はどこにもない。それは楽ではあるんだけど、大変でもある」

「分かるような気がする」

「とにかく、厄介な状況ではあるんだ」

「それなのに映画を観てたの?」

「うん。途方に暮れてたから」

「……」

 篠目は呆れたみたいに溜め息をついた。

「……帰る方法、あるの?」

「どうかな……あったら、考えることが減っていいんだけどね」

 篠目は僕の言い方が引っかかるみたいに眉を寄せた。


365: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/05(月) 00:53:27.04 ID:AU9ivydQo

「……行き場がないなら、わたしの家に来る?」

 今度は、その言葉を僕らが訝しむ番だった。

「帰る手段を探すにしても、そうしないにしても、とにかく、拠点は必要でしょう?」

「家の人は?」

「いないから大丈夫」

「……」

「そのかわり、手伝ってほしいことがある」

「……なに?」

「事件を未然に防ぎたいの」

 僕は、少しだけ考えた。

「協力しろ、と?」

「そういうことになる」

「ふむ」

「おもしろそうだね」とすみれは言った。本当に面白がってるみたいだった。

 まあ、たしかに、いつ帰れるかもわからないのに、いつまでもすみれの家にいるわけにもいかない。
 とはいえ、それは篠目の家でも同じことではあるのだが……。

「……答えは後でいい。とにかく、今日はうちに来たらいい」

 僕は少しの間篠目の表情をうかがったが、結局溜め息をついて頷いた。

「まあ、とりあえず、助かることは助かるしね」



368: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:46:26.21 ID:vWhZ8IiDo



 篠目の家には誰もいなかった。誰もいない家ばかりにやってきてしまう。

「親御さんは?」と訊ねると、

「離婚調停中」と返事がかえってくる。

 そうですか、と僕は思った。

 僕とすみれはすぐさま篠目の私室に通された。彼女は僕たちのためにコーヒーを入れてくれた。

「粗茶ですが」

「コーヒーだと思うけど」

「粗コーヒーって語呂悪いし」

 そうですね、と僕は思う。

「それにしても、本当に碓氷そっくり」

「本人だからね」

「仕草がぜんぜん違うのに」

 そう言われても、僕はこっちの僕をあまり見ていないから分からない。


369: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:46:57.15 ID:vWhZ8IiDo



 篠目の部屋は意外と普通な感じだった。一番目につくのは本だ。綺麗に整頓されている。他のものは収納されているらしい。

「綺麗な部屋だね」と僕はとりあえず思ったとおりの感想を言った。

「散らかってますが」と篠目は言う。

「いや、綺麗だって言ったんだけど」

「社交辞令です」

 本当に、この子との会話は難儀だ。

「掃除とか整頓とか、好きなので」

「ふうん」

「遼一は嫌いでしょ」と、堂々とした態度でクッションに腰を下ろしたすみれが言った。

「なんでそう思う?」

「部屋、散らかってそう」

 正解だ。僕は掃除とか片付けとか、そういうあれこれが大の苦手だった。
 基本的に自室は混沌としている。

 何がどこにあるのか、どうしてそれがそこにあるのか、僕は自分のことなのに分からなかったりする。


370: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:47:29.95 ID:vWhZ8IiDo

「ふたりは恋人同士?」

「ふたりって、誰と誰?」

 篠目の質問に問を返すと、彼女は僕とすみれを交互に指差した。

「違うよ」

「うん。違うね」

「ただのお友達?」

「友達ですらない」

「どういう関係?」

「しいていうならセフレだね」

「せふれ」

 すみれの軽口を、篠目は鸚鵡返しした。

「知らない世界」

「すみれ、適当なこと言わないでくれる?」

「でも、わたしたちの関係を言い表す的確な言葉だと思うの」

「どこが」

「お互いがなんかもやもやして、すっきりしなくて、楽しいこととか気持ちいいことがしたくて、一緒に行動してる」

「……それがセ〇クス?」

「観念的セ〇クス」

 違うと思う。


371: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:47:57.06 ID:vWhZ8IiDo

「あの。そういうの、よくないと思います」

 篠目が僕の方をまっすぐに見てそう言った。

「僕もそう思う」

「よくないと思うのに、そういう関係なの?」

「そういう関係じゃない」

「つまり、なんとなくもやもやして、楽しいことがしたいから一緒に行動しているわけではない?」

「……ではない、こともないかもしれない」

「つまり、観念的セ〇クスフレンド」

「その言い方やめて」

 僕はなぜか落ち込んだ。


372: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:48:22.81 ID:vWhZ8IiDo

「それで、結局、どういう関係?」

 答えないと、またすみれと篠目がふたりで話を混沌とさせるような気がしたから、僕は真面目に答えることにした。
 質問に真剣に答えるというのは、あんまり得意ではないんだけど。

「偶然会って、話してるうちに……意気投合、して」

「したっけ? 意気投合」

「したことにしてくれ。話が進まないから」

 頭を抱える僕を見て、すみれは楽しそうにけらけら笑った。

「それで、妙な都市伝説の話になった」

「都市伝説?」

「そう、都市伝説。廃墟の遊園地のミラーハウスに行くと……」

 そこまで言って、そういえばこの話を僕に教えてくれたのは篠目だったと思いだした。

「聞いたことない? その話」

 篠目は首をかしげた。

「聞いたことない」

「……」

 それがなにを意味するのか、今の僕にはよく分からなかった。


373: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:48:53.84 ID:vWhZ8IiDo

「……とにかく、その噂のミラーハウスに行って、出てきたら、こっちにいた」

「つまりふたりは、行きずりの関係」

「その言い方やめて」

「……行きずりって、何かダメな言葉だった?」

「ダメじゃないよ。遼一の頭がやましいだけ」

 勝手にやましいことにされてしまったが、今の流れだと否定もしにくい。
 すみれはそのまま、篠目の方を向いた。

「えっと……名前、なんだっけ?」

「篠目あさひ」

「あさひ。変な名前」

「あなたは?」

「咲川すみれ」

「綺麗な名前」

「……それ、変な名前って言われるより妙な気分ね」

 すみれはちょっと嫌そうだった。


374: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:49:26.53 ID:vWhZ8IiDo

「ふたりは並行世界から来たって言ってたけど、そのミラーハウスが原因ってこと?」

「そう。まあ、いろいろあったんだけど……」

 すみれが、面倒そうに手を振った。僕もひとつひとつ説明する気にはなれなかった。
 
「望んだ景色を見ることができる、って噂だったんだ」

「景色?」

「そう。ミラーハウス。で、出てきてみたら、この世界だった」

「じゃあ、ここはあなたたちが望んだ景色?」

「……そういう解釈になるかな、やっぱり」

「あなたたちの世界って、こっちとどう違うの?」

「遊園地の様子が違った。乗ってきたバイクもなくなってた」とすみれは言う。

「噂も流れてた」と僕。

「あとは?」

「……きみの言ってた、殺人事件って奴。けっこう話題になってるんだろ?」

「あ、うん。ワイドショーなんかで取り上げられてる」

「じゃあ、それもあっちにはなかった」

「殺人事件を望んでたの?」

「……ある意味じゃ、そうかもね」とすみれは皮肉っぽく言った。

 僕はもうひとつ思いついたことがあったけど、言ったら何を言われるかわからなかったので黙っておいた。


375: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:49:54.82 ID:vWhZ8IiDo


「何か、思い当たることがあるって顔、してるよ」

 それなのに、篠目はあっさりと看破してしまった。
 本当に、この子はどっちの世界でも変わらない。

 僕の韜晦を、彼女はあっさりと見透かしてしまう。
 相性が悪いのだ、きっと。

「……さっき、僕がいた」

「うん」

「生見小夜と歩いてた」

「……イクミサヨ?」

 すみれが、怪訝げに眉を寄せた。

「僕の、幼馴染。あっちじゃ、あんまり話をしなかった」

「生見さん? そうなの?」

「じゃあそれじゃない? 遼一」

 とすみれ。

「望んだ景色。たぶんそれだよ。生見さんってこと一緒にいたかったんじゃない?」

「……」

 僕は何も答えなかった。否定も肯定も、できそうにない。自分でもよくわからなかった。
 そうと言われれば、そうかもしれない。


376: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:50:20.88 ID:vWhZ8IiDo


「自分でもよくわからない」と僕は正直な気持ちを話した。

「ともかく、わたしたちに関係する目に見える変化って、それくらいだもん」

「……すみれの方だって、何か変わってるかもしれない」

「それは否定しないけど」

「ところで」

 と篠目は話を区切った。

「わたし、あなたのこと、なんて呼んだらいいの? 碓氷って呼んだら、混乱しちゃうでしょ?」

「それを言うなら、僕も篠目を篠目と呼んだら混乱する」

「わたしのことはあさひでいい」

「じゃあ、僕も遼一でいい」

「遼一。うん、分かった」

「……」

 すみれは何か言いたげな顔をしていたけれど、結局何も言わなかった。


377: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/09(金) 00:51:17.33 ID:vWhZ8IiDo

「でも、どうすれば帰れるのかな、そうすると」

「……とりあえず、そっちに関しては、ひとまずいいよ。考えてもわかりそうにないし」

 僕はそこで話を変えた。

「それより、あさひの夢の話」

 同級生と同じ顔をした同じ名前の女の子を、下の名前で呼ぶというのは、慣れるまで変な気分がしそうだった。

「それと、殺人事件の話」

「そうだったね」

「一応きいておくけど」とすみれは口を挟んだ。

「誇大妄想の類じゃないよね?」

 篠目――あさひは、少し虚空を見つめてから、ぼんやりした調子で、

「保証はできないかも」

 そう、困ったように呟いた。


380: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:47:26.38 ID:YpustQk1o



「ちょっと順番が前後するけど、最初に事実から話すね」

 あさひはいくらか悩んだような素振りを見せたあと、そう言って話し始めた。

「最初に報道された事件は、先月のこと。七月二十日。地下鉄駅の通路の物陰。夕方。混雑している時間帯だった」

「……今日、何日だっけ?」

「八月十九日」とあさひは言った。ちょうど一ヶ月が経とうとしているわけだ。

「殺されたのは、近くの高校の二年生だった。刃物かなにかで。何箇所か刺されて」

「……」

「ちょうど夏休みに入ったばかりで、どこかに出掛けて帰っているところだったみたい。犯人は捕まってない。
 人混みの中だったのに、犯人の目撃情報は極端に少なかった。でも、ないわけじゃなかった」

「目撃情報……」

「そう。殺された男の子と言い争っていた人がいたのを見た人がいた。
 その人によると、同年代くらいの男の子と険悪な雰囲気だったのを見たらしい」


381: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:48:33.94 ID:YpustQk1o

「……ちょっと待って」

「なに?」

「犯人、捕まってないんだったよね?」

「うん。でも、報道された情報はそこまで。あとは、ワイドショーなんかでいろんな憶測を挙げてたりしたけど、すぐに事情が変わった」

「……ああ、そうなるよな」

「ん、どういうこと?」

 話を黙って聞いたままコーヒーを飲んでいたすみれが顔を挙げた。

「ひとつの事件として見るのと、連続の事件として見るのでは事情が変わってくるだろう」

「ああ、そういう……」

「あれこれ憶測しているうちに、データが増えたってことだな」

 こくり、と、あさひは頷いた。


382: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:49:01.49 ID:YpustQk1o

「二人目はね、うちの学校の女の子だったよ」

「……」

「七月二十七日。この子は、家の近くの雑木林で死体が見つかった。
 おんなじように、刃物で刺されて亡くなってた。こっちは目撃者なんてほとんどいなかった。
 人気のないところで、死体が見つかったのも、翌朝になってからだったって」

「……うちの学校、か」

 それは、僕にとっても、自分の学校ということだ。

「僕の知ってる子かな」

「分からない。弓部 玲奈さんっていう、先輩だった」

「……ユベ、レイナ」

 知らない名前だった。

「あさひは、知ってる人?」

 彼女は、少し、何かを思い出すような表情になった。

「綺麗な人だったよ。でも、怖い人だった」

「怖い?」

「なんだろう、ね。どことなく、なんだけど」


383: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:49:34.04 ID:YpustQk1o

「一応、定石通りの質問をしてみるけど、その前にひとつ」

「なに?」

「あさひは、その事件について、いくらか調べているんだよな?」

 こくり、とまたひとつ頷く。

「ニュース、新聞、ワイドショーで調べられるだけの情報は、一応。
 それから、被害者の友人関係なんかも、できるかぎり……。ツテがないから、同じ学校の人のことだけだけど」

「……なるほど」

 あさひはそこで、ふう、と溜め息をついた。

「一応、これが、報道されてるふたつの事件」

 僕は怪訝に思って質問した。
 
「……"報道されてる"。ずっとそう言ってたな」

「そう」

「順番が前後する、って言ってたのは?」

「うん。そういうこと」

「どういうこと?」

 話を半分に聞いていたすみれが、どうでもよさそうに訊ねる。



384: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:50:10.49 ID:YpustQk1o

「報道されてない殺人があるんだろ」

「どうしてそれを、あさひが知ってるわけ?」

「うん。だからね……それを、夢で見たんだ」

 すみれは「ふむ」と眉を寄せた。

「胡乱な話になってきたね」

「ずっと胡乱だよ」と僕は言った。

「最初からずっと」

「そうだね」とすみれは頷く。

「正解」と、だいぶ遅れて、あさひも頷いた。


385: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:50:37.21 ID:YpustQk1o

「まず、わたしが夢を見るのは、わたしが眠っているとき。あたりまえだけど……」

「まあ、そうだろうね」

「夢を見るタイミングはバラバラだけど、最初に見たのは七月の頭頃だった」

「……頭、か」

「うん。数日間。変な夢だなって思ってた。次の夢を見たのは、七月半ば頃。それが、最初に報道された事件」

「……どちらも、夕方に刺し殺される夢だった、ってこと?」

「うん。一つ目は、学校帰り、だと思う。詳しい様子までは分からないけど、物陰から突然、刺し殺した」

「……ひとついい?」

「なに?」

「あさひは、殺しの場面を夢で見てるんだよな?」

「そうだね」

「それが本当か、本当だとして、実際に起こったことを見ているのか、そこらへんの事情は一旦棚上げする。
 でも、その場面を見てるんなら、犯人の姿や顔は分かるんじゃないのか」

「ううん。分からない」

「どうして」

「犯人の視点の夢だから」とあさひは言う。

「わたし、人を殺す夢を見てるの。いまは、碓氷を殺す夢を見てる」

 なるほど、と僕は思った。


386: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:51:04.85 ID:YpustQk1o

「夢で見た内容は……報道された内容とは、一致してる?」

「少なくとも、二件目と三件目……さっき話した、死体が見つかったものについては、一致してた」

「駅と、雑木林」

「そう」

「犯人の声は、聞き取れなかった。でも、いくつか、被害者側の声は聞き取れるものもあった」

「どんな?」

「それは……少し曖昧だから、あとで整理したい」

「了解。一件目と四件目の被害者は?」

「……行方不明ってことになってる」

「どこの誰なんだ?」

「うちの学校の生徒」

「……」

 ずいぶん、偏っている。

「駅での殺人じゃ、目撃情報があったんだよね」

「そう。死体は発見されていないけど、警察も二人の行方不明を事件と関連付けて調べてもいるみたいで……」

「とすると、犯人は……」

 こほん、とすみれが咳払いをした。

「遼一と同じ学校の生徒で、三人の同校生徒と何かの形で関わりがあり、かつ、二番目の被害者とつながりのある人物」

 僕とあさひはとりあえず頷いた。


387: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:51:31.29 ID:YpustQk1o

「そのうえで」とあさひが言葉を引き継いだ。

「碓氷とも、何かの形で知り合いだと思う」

「……でも、このくらいのこと、警察ならすぐに分かるはずじゃない? どうして犯人が捕まってないの?」

「犯人が学生ではない可能性、単に無差別殺人である可能性、いずれかが模倣犯である可能性、
 行方不明が事件とは無関係の可能性、行方不明の人間が犯人である可能性……」

「……多角的視野」

「それでも、いくらか絞ってはいそうだけど」

「次の夢を見たってことは……犯行は続く可能性が濃厚ってことか」

「もし、行方不明になったふたりが、本当に殺されているなら、だけど」

 なるほど。これは、厄介な話だ。
 あさひの夢を信用するなら、情報はかなりまとまって手に入る。なにせ彼女は、犯人の視点で当の出来事を見ているのだ。
 
 でも、そこで得た情報を信用しない場合、可能性は一挙に広がってくる。犯人どころか事件の全容さえ、はっきりしなくなる。
 この世界の碓氷遼一が、本当に殺されるかどうかでさえ……。

 それで、"誇大妄想の類じゃないと保証はしかねる"わけだ。


388: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:52:38.84 ID:YpustQk1o

「行方不明になったふたりは、さっきも言ったけど、うちの学校の生徒。
 一人目が、沢村 翔太。二人目が、寺坂 智也」

 少なくとも、死体は発見されていない。

 あさひの夢では、沢村は、どこかの公園かなにかにある公衆トイレのような場所で。
 寺坂は、どこかの古い建物……小学校かどこかの、使われていない校舎のような場所で。
 それぞれ刺し殺された……というより、"刺し殺した"、という。

「発見された二人の名前は、さっき言った通り、弓部先輩と……もう一人は、他校の、鷹野 亘って人」

「そのうち、殺されたこと、殺された日時が分かっているのも、発見されたふたりだけってことだ」

 あさひは頷いた。

「鷹野 亘くんは、七月二十日、弓部先輩は七月二十七日」

「夢を見るようになってから殺されるまで、数日のスパンがあるとすると……最初の事件は、七月の上旬か」

「そうなる、と思う。最初に夢に出てきたのは沢村くん。学校に来なくなったのは、たぶん、七月六日頃」

「寺坂っていう奴の方は?」

「夢を見たのは、八月の頭頃だった。でも、夏休みに入ったから、いなくなったのがいつなのかは……」

「いなくなったのは、たしかなの?」

「……確証があるとは言わないけど、彼、野球部だったらしいから、一応聞いてみたら、部活に出てないって」


389: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:53:09.65 ID:YpustQk1o

 僕は、頭の中であさひの話を整理してみる。

 まず、最初にあさひは、同じ高校の生徒、沢村翔太が公衆トイレかどこかで殺される夢を見る。
 そして、彼は七月六日に失踪する。

 次に、七月の半ば頃、駅で他校の生徒が殺される夢を見る。
 七月二十日に、鷹野亘が実際に殺される。これは報道もされる。怪しい人物の目撃情報も、ここであった。

 さらに三番目は、弓部玲子という同じ高校の先輩だった。
 彼女は自宅近くの雑木林で、殺された(おそらく)翌朝に発見される。

 最後が寺坂智也。使われていない校舎のようなどこかで、彼は殺される。
 寺坂がいついなくなったか、実際にいなくなっているのかについては、はっきりとはしないが、それらしくはある。

 そして八月十九日の今、篠目あさひは碓氷遼一を殺す夢を見ている。

 ……それにしても。
 参ったな。

 知っている名前がいくつかある。

「とにかく、人がこれ以上死ぬのは困る。協力してほしい」

 特に困っていなさそうな口調で、あさひはそう言った。

「……そうは、言っても、どうする気?」


390: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:53:38.01 ID:YpustQk1o

「そんなに難しくないよ」とあさひは言う。

「他のときは、知らない人ばかりだったから、名前を知ったのはあとになってからだった。でも、今回は違う」

「……」

「次は、碓氷が殺される。時間は、おそらく夕方。だったら、碓氷を監視しておけばいい」

 おいおい、と僕は思った。
 てっきり、ミステリー的な展開になるんだと思っていたぞ、と。

「一人じゃ心許なかった。それに、人の命が懸かってるのに、「おそらく」じゃ行動したくない。
 そのためには、時間も足も何もかも足りなかった。でも、三人いれば大丈夫」

「ちょっと待って」とすみれ。

「わたしも頭数に入ってるの?」

 あさひはすみれが飲み干したコーヒーカップを指差した。
 う、とすみれは呻いた。安い賃金になりそうだった。

「ちゃんと犯人を捕まえたら、わたしもあなたたちに協力する。悪い話では、ないと思う」 

 ふう、と知らず溜め息が出た。


391: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/18(日) 23:54:10.21 ID:YpustQk1o

「……とすると、そろそろこの世界の僕のところにいかないとまずいわけだ」

「できたら、あまり目を離したくない」

 それはそうだろう。なるほど、ストーキングにも道理があったわけだ。

「場所は?」

 と僕は訊ねた。

「場所が分かれば、追いかけなくても済むかもしれない」

「本当に夢のとおりに起きるとは限らない」

「……」

 それを言ったら、殺人自体がそうなってしまう。

「なるほどね」と、とりあえずそう言っておいた。
 たしかに……死んでからじゃ遅い。

「それで……僕はどこにいるんだろう?」

「わからない。家かな?」

「だとしたら問題」とあさひは言う。

「碓氷は、自宅で刺されるみたいだから」


394: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:36:22.44 ID:YME1DXE2o



 この世界の僕の行動範囲について、僕は何も知らない。
 
 家の位置は、とりあえず一緒だと考えていいと思う。
 でも、生見小夜と行動を共にするということを、この僕はしない。
 
 それをしているという時点で、僕にとっては理解不能の他人と変わらない。

 そうなってしまうと、結局は足を使うしかなかった。
 頭でいくら考えたところで優位になんて立てやしない。

 とにかく僕たちは――安くはない交通費を払ってまで――僕の家に向かった。
 思った通り、場所は僕の知っているところに違いなかったし、様子もあまり変わったようには感じなかった。
 
 問題は、僕の姿が見えないことだった。
 困ったことに、家の中にいるのかどうかさえ分からない。

 僕の家は民家の並ぶ通りにあったから、どうしても人目につくし、長時間ぼーっと立っているわけにはいかない。
 そうなると距離を置いてどこかから様子を窺うしかない。

 そういうことのできそうな場所は、近所の駄菓子屋の前のベンチとか、子供たちが遊ぶ公園とかしかなかった。



395: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:36:52.33 ID:YME1DXE2o


 見通しが悪いせいで、怪しまれずにずっと目を離さずにいるというのはほとんど不可能なように思える。

「ずいぶん人がいいよね」と僕は言った。あさひは何のことだか分からないみたいだった。

「きみは夢を見ただけだろ?」

「ん。まあ」

「夢なんて所詮夢だろ。誰にも内容なんてわからないんだし、知らんぷりしてほっといたって良いわけだ」

「べつにそれでもいいんだけど」とあさひは言う。

「寝覚めが悪いでしょう」

「夢だけに?」

「まさしく」

「なるほど」

 八月の日没は遅い。公園のベンチから道端を眺める僕たちに見向きもせずに、男の子たちが遊んでいる。
 すみれが退屈そうにあくびをした。

「不謹慎だよ」と僕は咎めてみせた。

「僕の命がかかってるんだぜ」

「あはは」とすみれは安っぽく笑った。僕も笑った。


396: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:37:22.89 ID:YME1DXE2o

「何してるんだろうね、僕は」

「生見さんと、さっき街にいたし、帰ってこないかもね」

「電話番号とか、知らないの?」と僕はあさひに訊ねてみた。

「誰の?」

「僕の」

「どうして?」

「あったら便利かなと思って」

「だって、碓氷と話したことないもん。遼一は、そっちのわたしに番号教えてたの?」

 状況が状況だけに、何気ない質問もいちいちややこしい言い回しになってしまう。

「そういえばお互い教えてなかったかも」

「ほらね」とあさひは言ったけれど、何が「ほらね」なのか分からなかったし、たぶんあさひにも分からない。


397: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:37:52.31 ID:YME1DXE2o

「たいくつ」と眠そうな声ですみれが言った。

「遼一、何か面白い話をして」

「面白い話?」

「そう。じゃあ、あんたの話をしてよ」

「僕の? どんな?」

「そうだなあ……。あんたは、どうしてこんなところに来ちゃったの?」

「……」

 すみれはどこか眠たげな顔で、どうでもよさそうにそう訊ねてきた。
 あさひもまた、興味はなさそうだった。

「僕の家族の話をしたっけ?」

「家族? ……どうだったかな。聞いたような、聞いてないような。たぶん聞いてない。
 でも、親に対する恨み言を言ってたのは覚えてる」

「恨み言……?」

 そんなの、言ったっけか。

「勝手に産んだんだ、って」

「ああ……」

 僕はそのことについて、特に何も言い足さなかった。


398: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:38:21.55 ID:YME1DXE2o

 そうだな、と僕は考えた。どこから話せば伝わるだろう。
 きっと、どこから話したところで、うまく伝わらないんだけど。

「僕にはひとり姉がいるんだ」

「お姉さん?」

「そう。けっこう歳が離れてて……もう結婚してるんだけど」

「ふうん」

「それで子供を産んだ。僕が……そうだな、たしか、八歳くらいのときだったはずだよ」

「お姉さんはいくつだったの?」

「二十歳かな」

「じゃあ、お姉さんとの年の差より、お姉さんの娘との年の差のほうが小さいのね」

「うん。だから、そうだな。妹みたいな存在なのかもしれない」

「……妹、ね。それが?」


399: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:38:49.45 ID:YME1DXE2o

「うん。でもね、姪が生まれて一年経ったかどうかって頃に、姉は離婚したんだ」

「ふうん」

 すみれは特に興味も沸かないようだった。それはそうだろう。珍しい話でもない。

「姉は家に戻ってきて、僕らと一緒に暮らしてた。
 でも、更に一年が経った頃、新しい恋人ができたんだ」

「はあ」

「それで妊娠した」

「……」

「姉は当然のように子供を産んで再婚しようとしたけど、姪は嫌がった。
 嫌がった……うん。物心ついてない頃のことだから、本人がどう思っているかは分からないけど……。
 とにかく、強い拒否反応みたいなものを見せた」

「……なるほど」

「でも、子供が出来た。姉は再婚しないわけにはいかなかった。
 相手の男の方も、拒絶されると他の男の子供のことなんかどうでもよくなったみたいで……。
 姉は姪を残して家を出て、その男と、その男の子供と暮らし始めた」

「それで?」

「なにが?」

「今は?」

「今もだよ」

 すみれは少しうんざりしたみたいだった。
 それから少し考え込んだあと、ああ、なるほど、と小さな声で呟いた。


400: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:40:09.21 ID:YME1DXE2o

「だから、なんだね」

「なにが」

「勝手に生んでおいて、って奴」

 僕は少し考えた。

「……うん。そうなのかもしれないな」

 姪を放り出した姉。
 姪のために何もしようとしない姉。
 そのまま、もう、数年が経ってしまった。

 いろいろと事情はあるらしかった。
 
 新しく姉の夫になった男は、なかなかに困った人間で、
 結婚する前こそ僕や僕の両親の前で大きなことを言っていたけれど、
 今となっては姪の面倒を見る気なんてさらさらなさそうだった。

 その男の両親にとっては姉とその男の子供が初孫にあたるらしく、
 こっちの姪のことばかり気にかけるうちの両親には、「こちらのことも考えろ」と腹を立てているらしかった。


401: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:40:38.38 ID:YME1DXE2o

 そもそも、最初の男と姉が分かれたのだって、若くして結婚した姉が、結婚生活というものにうんざりした部分が大きかった。
 同年代の人間はまだ好きなことをして遊んでいるのに、育児や家事に追われて好きに出かけることもできない日々。

 その感覚は僕にだって理解できないわけじゃない。
 でも、勝手だとも思う。

 勝手な理由で姪は生まれた。勝手な理由で、まず実の父がいなくなった。
 禍根を残さないようにという理由で、養育費を求めないかわりに、姪と顔を合わせないようにと姪の実父は言われた。

 当時としてはそれが最善だと思えた。……今となっては、何が良かったのか分からない。
 どちらも子供だったのだ。

 勝手に産んで、 
 放り投げて、
 それでも子供は親を愛さなければいけないのだろうか?

 ……いや。
 
 それでも子供は、不思議と親を愛してしまう。そうであるからこそ、親を求めてしまう。

 姪を見ていると、そう思う。

 それは、とても痛ましい景色だ。

 姉はもう、あたらしい子供と、あたらしい旦那と、あたらしい家で、あたらしい生活を始めていて、
 それはもう、姪と姉が一緒に暮らしていた時間を、量的にはずっと上回ってしまっている。

 僕はいつも不思議だった。

 姪を放っておいて、それで当たり前の家庭のような生活を送れる姉の神経が。
 彼女の側には彼女の都合があるのだろう……僕にだってそれは分かる。

 けれど……。


402: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:41:16.18 ID:YME1DXE2o

「それで?」

「うん?」

「それが、どう繋がるの?」

 ああ、そういえば、僕がこっちにきた理由について話していたのだった。

「……いや、うん。どうだろうな」

「?」

「あんまり、関係なかったかもしれない」

「なにそれ」とすみれは笑った。

 僕も合わせて少し笑った。

 そうして今も、姪は僕と一緒に、姪にとって祖父母にあたる僕の両親と暮らしている。
 今でも、姉と顔を合わせる機会がたまにあると、情緒不安定になる。
 
 異父妹と会えば、なおさら。

 だから僕は……金を……貯めようと思った。
 きっと、姉はあの子に何もしないから。姉があの子にすることは、すごく限られているから。



403: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/12/28(水) 21:41:42.41 ID:YME1DXE2o

 勝手に産んだんだ。勝手に産んだんだから、親にはその責任ってものがある。
 それを親が果たさないなら……誰かが代わりにやらなきゃいけない。
 それでも子供が親や大人を恨んだら、黙ってその言葉を引き受けなきゃいけない。

 だって、本当に、産んだのは大人の勝手なんだから。生まれて苦しむことを、子供が選んだわけじゃないんだから。

 そう、思った。でも結局……僕だって、姉と同じことをしているんだ、今は。

「……僕も、放り出して逃げてきたんだな」

 結局、どれだけ言い繕ったって、そういうことだ。
 僕だって、つらくなって逃げ出してきたんだ。
 
 その日、僕たちは日が沈むまでその公園にいた。
 暗くなってから、「僕」と生見がふたりで並んで一緒に僕たちの前を横切っていった。
 こちらに気付きすらしなかった。
 
 僕たちは暗くなってから、あさひの家へと戻ることにした。

 そしてゆっくりと休んだ。僕は愛奈のことを考えたけれど、
 逃げ出した身でどれだけ考えてみたところで、結局は帳尻合わせめいていた。


406: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:55:48.62 ID:683/AOgXo

◆[Cassandra] A/b


 お兄ちゃんが死んだと聞かされた日、わたしは泣いた。
 
 そのときの自分が何を思ったのかもわからない。何を考えていたのかもわからない。
 わけもわからずに、それでも両目からぽろぽろと涙がこぼれるのを止められなかった。
 
 何がそんなに悲しかったのか。

 彼にもう会えないのだと、そのときに実感していたわけでもない。
 かわいそうだと、彼を哀れんでいたのでもない。

 それでもわたしは泣いていた。
 
 泣いている自分を、悔しいとも思った。
 どうして泣いてしまうのか、と。

 そんな自分を卑怯だとも思った。
 理由は、今でもよく思い出せない。

 それでもお兄ちゃんは死んでしまって、
 死んでしまった以上は二度と会うことができない。
 それはとても当たり前のことなのだ。


407: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:56:18.37 ID:683/AOgXo

 お兄ちゃんのことについて考えるとき、わたしが思い出すのは彼の笑顔のことだった。
 
 怒ることも悲しむこともなければ、思い切り笑うということすら、彼はしなかった。

 とても穏やかに笑った。破顔する、というのとは違う。表情はゆっくりと変わっていく。
 その表情のゆるやかな変わり方が好きだった。

 けれどあれは、今思えば、
 意識的にそうしようとしていたからこそ、あんなふうに静かだったのではないだろうか。

 お兄ちゃんについて、わたしは何も知らない。
 一緒に過ごしてきたのに、なにひとつ思い出せない。

 本が好きだった。音楽が好きだった。映画が好きだった。ひとりで旅行にいくのが好きだった。
 それから?

 わたしはお兄ちゃんについて、いったい何を知っていただろう。


408: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:56:44.57 ID:683/AOgXo



 あなたの叔父さんが、わたしのお客さん。

 そう言って、女は苦しげに顔をしかめた。
 わたしは、ああ、やっぱりそうだったのか、と、そんなふうに思った。

「お兄ちゃんが、この世界を望んだの?」

「そういう言い方もできる」と彼女は言った。

「お兄ちゃんは、この世界にいたの?」

「それは確か」

「お兄ちゃんは……」

 わたしは、何を訊ねるべきかもわからないまま問いを重ねようとした。
 それを遮ったのはケイくんだった。

「なあ、帰れるんだろ?」

 彼はうんざりしたような口調でそう言った。

「帰れるんだったら、とっとと帰ろう」

「でも」


409: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:57:12.06 ID:683/AOgXo

「いいから、帰るぞ」

「ケイくん!」

 わたしの声に、彼は気まずそうに視線をそらした。

「少し、話をさせて。お願いだから」

 彼は押し黙る。わたしは黒服の女の方へと向き直った。

「ねえ、あなたはお兄ちゃんが何を望んだのか、知ってるの?」

 女は溜め息をついた。

「わたしがそれを知っているとして、それを聞いてどうするつもりなの?」

「知らないの?」

「……残念だけどね、わたしは知らない」

 彼女はそう言った。

「どうして? あなたが願いを叶えたんじゃないの?」

「……ねえ、少し落ち着いてくれる? ……うるさい」

 その冷たい言葉の響きに、わたしは背筋がざわつくのを感じた。


410: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:57:39.27 ID:683/AOgXo

 ふう、ともう一度、彼女は溜め息をつく。

「どうでもいいでしょ、そんなこと。不満なら、そう。
 ほら、わたしにも守秘義務っていうのがあるって思ってくれてかまわない」
 
 とにかく、わたしがそれをあなたに伝える義理はひとかけらもない。

「うるさい」

 と今度はわたしが言った。

「教えろ」

 女の人は少し面食らったみたいだった。

「やめろよ」とケイくんが言う。

「もう少し待って」

「やめろって」

 彼はそう言ってわたしの肩を掴んだ。

「聞いてどうする」

「どうって?」

「いいから帰るぞ」

「どうして?」

「夢なんだよ。全部悪い夢なんだ。考える必要のないことなんだよ。どうでもいいだろ、そんなこと」

「ちょっと黙ってて!」

 口調が荒くなるのを止められなかった。

「……大切なことなの」


411: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:58:16.12 ID:683/AOgXo

「本当に知らないの」

 女は言う。

「わたしは結果から推測できるだけ。何を望んでいたかは本人にしか分からない。
 だいたいのことは分かるけど、でもそれは、あなたたちが見たものから推測できるものとおんなじ」

「……お兄ちゃんは……」

 わたしが。
 この世界にはいなくて。
 わたしのかわりに穂海がいて。

 お母さんがいて。
 お兄ちゃんは……。

 思っていたのか。
 
 わたしがいなければ、
 わたしがいなければ幸せだったって。

「――どうするの? 帰るなら、帰る。帰らないなら帰らない」


412: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 20:58:58.29 ID:683/AOgXo

「……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?」

 わたしの肩に手をおいたままのケイくんにそう訊ねる。
 彼は、少しの間黙っていた。

 それから、心底呆れた、馬鹿馬鹿しいというふうに溜め息をついて見せた。

「あのな、冷静に考えてみろ」

 その声のあまりの軽さに、わたしは戸惑った。
 ケイくんはまるで、小さな子供の言い間違いを諌めるような調子で続けた。

「たしかにこの世界にはおまえがいなかった。でもよく考えてみろ。もうひとつ大きな違いがある」

「……大きな違い?」

「時間だよ」とケイくんは言った。

「叔父さんはここだと高校生だ。おまえの叔父さんは二十代だったんだろ。
 そう考えれば単純だろ。叔父さんはやり直したいことがあったんだよ」

「……やり直したこと?」

「それが何なのかは俺にも分からない。でも、そんなの、誰にだってあるだろ?
 やり直せるものならやり直したいことなんて、誰にだってある、と思う。
 叔父さんの心の底にはそういう願いがあったんだと思う。あのとき女の子に告白してればとか、そういう類の」

「……」


413: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 21:00:18.11 ID:683/AOgXo

「誰にだってあるんだ。後悔してることなんて。だから叔父さんは別の可能性を見てみたかったんだ。
 そう考えるほうが自然じゃないか? いや、そもそも……この世界が本当に叔父さんが望んだ世界なのか?
 俺たちは、べつの誰かがくぐった扉からここに来たんだ。だったら、その人の望んだ世界って考えたほうが自然だ」

「……」

「さっきこいつは、この世界を望んだのは碓氷遼一だと言った。でも、本当にそうかなんて分からない。
 仮にそうだったとしても、おまえのことを叔父さんが疎ましく思っていたなんてことにはならないと思う。
 叔父さんはただ、実際に自分が辿った人生とは別の可能性を見てみたかっただけなんじゃないのか?」

「……」

「なあ、思い出せよ。おまえの叔父さんは、おまえのことを疎ましく思っていたと思うか?
 叔父さんがそう言っていたか? 生きていた頃、叔父さんはどういう人だった?
 ――その人は、そういう人だったのか?」

 お兄ちゃんが。
 どういう人だったか。
 そんなの。

「……わかんない」

 頭のなかが、ぐるぐると、混乱していた。いろんなことが頭をよぎって、わけがわからない。

「わかんないよ……」

 お兄ちゃんは……わたしを。


414: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 21:01:29.25 ID:683/AOgXo

「おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
 そんな考えは責任転嫁だ。おまえの叔父さんは、そんなふうに身勝手な考え方をする人だったのか?」

「……違う」

「だったら」

「違うけど!」

 わたしは、
 何を思えばいいのか、わからない。

「でも、そうなのかもしれない」

「……帰ろう。悪い夢なんだよ、こんなのは」

 空はきれいな秋晴れで、
 わたしの吐き出した息をどこまでも高く吸い込んでいく。

 少し日差しはあたたかで、
 それでもわたしの視界は灰色にくすんでいる。


415: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 21:02:02.36 ID:683/AOgXo

「ねえ、本当にここは、お兄ちゃんが望んだ世界なの?」

 女は、不自然に慎重そうな仕草でわたしとケイくんの表情を順番に眺めた。
 そして一言、

「そう」

 と頷く。

「……ケイくん、ごめん」

「……なんだよ」

「ケイくんは、先に帰って」

 後ろから、息を呑む気配が伝わってくる。

「わたしは知りたい。お兄ちゃんが望んだ世界のこと。この世界が、どうなっているのか」

「……知ってどうするんだよ」

「わからないけど……」

「よく考えろよ。この世界には、叔父さんはいないんだ。
 この世界にいるのは、昔の、しかもおまえが知ってるのとはべつの叔父さんなんだ。
 どれだけたしかめたって、叔父さんが本当に何を望んでいたかなんて分からない」

 それに第一……と、ケイくんはそこで言葉を止めた。
 続きは言われなくても分かっている。

 お兄ちゃんは、死んでしまった。
 死んでしまった人間の願いなんて、知ったところで何になるだろう?


416: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 21:02:29.25 ID:683/AOgXo

「でも知りたいの」

「……」

「お兄ちゃんのことを知りたい。お兄ちゃんが、どうしてこの世界を望んだのか。
 何に苦しんで、何が悲しくて、何を望んでいて、何を思って、わたしにお金を残したのか」

「……人のことなんて、理解できないよ、きっと」

「でも、それはわたしにとって大事なことなの。どうしても、知りたい」

「たいしたことない話なのかもしれないよ」

「それならそれでかまわない」

 そう口では言ったけれど、本当はわたしは、何か望んでいたのかもしれない。
 お兄ちゃんがもっていた望み。お兄ちゃんが考えていたこと。

 そこに何か、意味深いものがあることを。

「……わかったよ」

「うん。それじゃあ、先に帰ってて」


417: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 21:04:33.16 ID:683/AOgXo

「何言ってんだ、バカ」

 と言って、彼はわたしの頭を軽く叩いた。

「いたい」

「おまえみたいな危なっかしいのを放っておけるか」

「……ケイくんって、お人好しだよね」

「うるさいな。でも、なるべく早く済ませよう。……おまえの家族だって、心配してるかもしれないだろ」

「……あ、うん。そうかも。ケイくんの家族もね。……やっぱり帰ったほうがいいんじゃ」

「うるせえ」

 と、ケイくんはまたわたしを叩いた。

「どうせまひるに服を返さなきゃいけなかったんだ」

「……ふたりとも、まだ帰らないんだね?」

 黒服の女は、呆れたみたいに溜め息をついた。

「まあ、べつにいいんだけど」


418: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/08(日) 21:04:59.03 ID:683/AOgXo

「……ごめんね」とわたしは一応謝っておいた。

「でも、わたしから教えられることはないよ」

 女はそう言って、わたしから目をそらした。
 何かを隠したように感じられた。

「気が変わったら、すぐに言って。
 ここまで来るのは不便だろうから、どこかに場所を変えることにする」

「……場所」

「そうだね。……このあたりで一番高い建物のてっぺんにいることにする」

「このあたりって……どのあたりだよ」

「この時期だと……うん。あと二年もすれば、一番じゃなくなるはずだね」

「……あ」

 どこだか、分かった。

「じゃあ、もし帰りたくなったら、そこに来て」

 そう言って、女の人は去っていった。

421: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:52:52.11 ID:G30ej1Nao



 女の人が去ってしまったあと、わたしたちはとりあえず歩いて、ようやく見つけたファミレスに入ることにした。

 本当は、あの女の人を呼び止めようと思った。彼女にいろいろなことを確認するのが、一番手っ取り早いはずだからだ。
 彼女はお兄ちゃんの望みを知らないと言っていたけれど、それでも顔や姿は見たはずだし、言葉も交わしただろう。

 そのときの様子や、お兄ちゃんの何気ない言葉のひとつでも聞き出せれば、これからの行動方針の参考くらいにはなったかもしれない。

 でも、彼女に話す気はなさそうだったし、それならいくら詰め寄ったところで仕方ない。
 それに、なんとなくだけれど……わたしは彼女に、なんとなく嫌な雰囲気を感じていた。

 その嫌な雰囲気というのは、別のどこかで感じたことがあるもののような気がしたけれど、それについてはあまり考えないことにした。
 考えるべきことは他にあった。

「さて」とケイくんが口を開いた。

「これからどうする?」

 それが問題だった。
 
 ここに来るまでの間少し考えてみたけれど、やはりたいしたことは思いつかない。
 頭に血がのぼっていたからといって、よくまあ考えなしに沈没間近の豪華客船に進んで残ろうとするようなことをしてしまったものだ。

 いくらか気分が落ち着いた今になっても、やはり間違った判断だったとは思わないが、それにしてもとっかかりがなさすぎる。


422: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:53:22.56 ID:G30ej1Nao

 とりあえずわたしたちはドリンクバーを頼んだ。割高にはなるが、お腹は空いていないし仕方がない。

 日が出てきて気温があがったせいか、少し暑さを感じていた。まだ残暑が抜け切らないらしい。
 だというのに熱そうなコーヒーをすすりながら、ケイくんは拗ねたみたいにわたしと目を合わせようとしなかった。

「あの、怒ってる?」

「怒ってはない。腹が立つだけだ」

「それって同じでは?」

「……そうだな。『頭にくる』じゃなくて、『腹が立つ』ってことだ」

「えっと?」

「なんとなくで解釈してくれ。べつにいいんだ、俺のことは。俺は最初から負けてるんだ」

「……何に?」

 ケイくんは答えるかわりに、カップをテーブルの上に置いた。

「いいんだって、俺のことは」

 もどかしそうに首を横に振って、ケイくんは話を変えた。


423: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:54:23.00 ID:G30ej1Nao

「それより、これからのことを話そう」

 そう言われても、わたしにはケイくんの態度が気になって仕方なかった。
 さっきは心強さが勝ってなんとも思わなかったけれど、彼はどうして残ってくれたんだろう。
 
 無理矢理にだってわたしを従わせることだって、彼ならできたはずだ。

 乗りかかった船だから責任を感じているのだろうか。
 
「最初に決めておきたいことがある」

「あ、うん」

「まず、期間。多少金はあるが、何日もこっちで耐えられるような余裕はない」

「期間……」

「余裕がなくなるとストレスが溜まる。ストレスが溜まると何をやってもうまくいかない。先の見通しは大事だ」

「……うん。そうだね」

「寝床に関しては、まあ、まひるがアテにできるだろうが……だからってずっと世話になるわけにもいかない」

 わたしは頷いた。そう考えると、わたしたちにはあまり時間的余裕はない。
 彼女は「帰りたくなったら会いに来て」と言ったけれど、それだって、いつ気が変わるか、忘れてしまわないか、わかったものじゃない。

 それに……もし、元来た世界で同じように時間が流れていたとしたら、家族も心配している。
 下手をしたら、浦島太郎みたいになりかねない。


424: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:54:57.94 ID:G30ej1Nao

「だから、あんまり長くいることはできない。長くても一週間だ」

「一週間」

「ひとつの目安だ。本当なら、今日明日で帰れるのが一番いい」

「……そうだね」

 いろんな事情を考えるなら、一週間でも、ケイくんとしては多すぎるくらいだろう。
 わたしはケイくんに甘えている……いつもそうだ。
 
 わたしは、黙って頷いてから、心のなかで更に短く期限を定めた。
 ……今日を含めて、三日。明後日まで。もし、それで収穫がなければ、きっといつまでいても変わらない。

「とりあえず、ひとつめはそれでいいな。次は、勝利条件だ」

「勝利条件、というと」

「何をしたら、目的が達成されたことになるのか、だ。何を探してるかも分からずに歩き回っていても埒が明かない」

「目的……」

「おまえは、叔父さんが何を望んでいたのかを知りたいと言った。俺には、そのためにこの世界でできることなんて、見当もつかない」

「……」

 わたしにも、よく分かっていなかった。この世界で何をしたら、お兄ちゃんの気持ちが分かるのか?
 そのためには、きっと、この世界のお兄ちゃんの様子や、その周りで起きている出来事を見るしかないのだろう。

 その結果、お兄ちゃんの望みについてなんて、なにひとつわからないかもしれない。
 でも、わたしが知りたいのは、この世界のこと。お兄ちゃんのこと。



425: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:55:26.69 ID:G30ej1Nao

「さっきも、似たようなことを言ったかもしれないが、一応改めて言っておく」

「……うん」

「他人の心なんて覗いたところで、きっとろくなことはない。知れるとしても、知らないでいるのがマナーだと思う」

「……うん。そうだね」

 他人の日記が目の前にあるからといって、興味本位でそれを眺めて、その人の思いを覗くのは、きっと浅ましい行為だ。
 そのなかに、他人を呪う言葉や、他人を蔑む言葉がないとも限らない。
 もしそれを見つけてしまったら、わたしはお兄ちゃんに落胆せずにいられるだろうか……?

 きっとわたしは、どこまでも勝手な生き物なんだろう。

 わたしはケイくんの言葉を受けて、頷いた。

「でも、やります。お兄ちゃんには悪いけど。わたしはお兄ちゃんのことを、知らなきゃいけないって思う」

 いけない、ね、と、ケイくんは小さな声で呟いた。

「そのために、最初にわたしがすることはひとつ」

「というと?」

「この世界のお兄ちゃんと、話すこと」

「……そうなるよな」

 そうなる。何よりもそれが手っ取り早い。
 少なくとも、何かの足しにはなるはずだ。

 この世界からわたしがすくい上げることのできるものなんて僅かに違いない。
 それでもやるしかない。
  
 日記ひとつ残さなかったお兄ちゃんの心の中を、わたしは勝手に覗き見る。
 彼の思いをわたしが知らなければ……彼は、報われない、ような、気がする。


426: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:56:38.00 ID:G30ej1Nao

「……さっきは詳しくは言わなかったけど、ひとつ疑問があるんだよな」

「というと?」

「あの女、俺たちがこの世界に"紛れ込んだ"って言ってただろ」

「たしか、言ってたと思う」

「ここが叔父さんの望んだ世界だ、というようなことも言った」

「うん」

「でも、"紛れ込んだ"って言い方をされると、俺たちは別の人間の扉に紛れ込んだ気がしないか?」

「……あの、眼帯の人?」

「そう。仕組みがわからないから何とも言えないけど、単純に想像したら、あの人の望んだ世界に紛れ込んだような気がするんだよな」

 わたしは少し考えたけれど、ケイくんが言ったとおり、仕組みがわからないので何とも言いがたかった。

「……まあ、俺の考えすぎかもしれないし、問題にもならないのかもしれない」

「あの女の人は、"使い回し"とも言ってたよ」

 わたしの言葉に、ケイくんが頷く。

「意味深ではあるが……まあ、俺たちには関係のない話かもしれない」

「少し気にはなるけどね」


427: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/15(日) 21:58:02.88 ID:G30ej1Nao

「そういえば」と、思い出したようにケイくんが声をあげる。

「"このあたりで一番高い場所"って、どこのことだ?」

「ああ。それ」

「分かるのか?」

「うん。二年で一番じゃなくなるって言ってたから」

「……」

「二年後に、そこより大きなビルが完成するはずだから」

「……ビル?」

「うん。そのビルが完成するより前なら、一番高い場所は……」
 
 街の中心部に十五年以上前からある、ひとつのオフィスビル。
 保険会社が保有している三十階建のそのビルの頂上には、無料で開放されている展望台がある。

 彼女はきっと、そこで待っている。


430: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:29:04.65 ID:oH4Ybz8Uo



 両親の不在が、わたしの心の奥底に暗い影を落としているわけじゃない、とは、もちろんわたしには断言できない。
 けれど、それを理由にわたしが何かしらの性格上の欠陥を持っていたとか、精神的不安定さを抱えていたとか、そういうこともなかった。
 と思う。たぶん。

 問題なんて、誰だって大なり小なり抱えているものだ。
 他人のそれと比べて、自分のそれが特別違うものだとは、わたしは考えない。戒めるまでもなくそういう実感がある。
 
 ケイくんはそれを、初期値の違いだと言った。
 
 ケイくんのお母さんが言い残した言葉や、ケイくんのお父さんがケイくんのお姉さんにしたことや、
 ケイくん自身が考えたたくさんのことについて、わたしはほんのすこしだけ知っている。
  
 べつに秘密にしているわけじゃない、とケイくんは言ったけれど、
 わたしはそのことについて誰かに話す予定もないし、また話すべきでもないと思っている。

 ケイくんはわたしとは違う。抱えている問題も、持っている強さと弱さの質も、わたしとはまったく違う。
 でもそれは、人間がふたりいれば当たり前に浮き彫りになるような個体差でしかない。


431: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:30:14.27 ID:oH4Ybz8Uo



 やることは決まった。
 とはいえ、("この世界の")お兄ちゃんが学校を終えるまでは、話しかけるのも簡単ではない。
 
 幸いまひるはお兄ちゃんと部活が一緒だと言っていたから、彼女を頼ればなんとかなるかもしれないが、
 どちらにしても放課後までは手も足も出せない状態ということになる。

 そうなるとわたしたちにできることは、昼の間は何もないことになってしまう。

 途方に暮れたわたしにケイくんが提案したのは、図書館に行くことだった。

「元いた世界とこの世界がどの程度違うのか、把握しておいて損はないと思う」

 迂遠な方法だという気もしたが、たしかに試してみる価値はありそうだった。
 ひょっとしたらこの世界は、わたしたちが気付いているよりももっと大きな形で違っているかもしれないのだ。
(日本の首都が東京じゃなくなっているとか)

 とにかく地方紙のバックナンバーならば図書館の蔵書にあるはずだし、
 それを見ればこの世界に起きたさまざまなことについて、いくらか学べるかもしれない。
 問題は、わたしたちが、七年以上前の記憶をしっかりと持っているかどうかということだ。


432: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:30:47.89 ID:oH4Ybz8Uo

 さて、図書館には駅からバスで三十分近く揺られなければならない。

 停留所の名前は「図書館前」で、着いてしまえば目前に駐車場を挟んで白くて大きな建物がそびえている。
 
「……ねえ、ケイくん、ところで、今日って何曜日?」

「……さあ?」

 わたしたちは朝起きてから、テレビも新聞も見ていなかった。携帯は使い物にならない。
 日付すら怪しい。

「休館日だったりして」

「いや。車がいくらか停まってる。大丈夫だろ」

 実際、図書館は開いていた。自動ドアをくぐった先にはコルクの掲示板がある。
 わたしたちはそこで開館予定の案内ポスターを見た。

 やさしいことに、かたわらの壁にはホワイトボードがあって、そこには今日の日付があった。
 九月十三日。少しさびしく見えるが、おそらく何かの催しや企画があるときに記入するスペースなのだろう。

「……あれ」

「どうした」

「土曜日だね」

「ああ。休館日は月曜だろ?」

「うん。ううん、そのことじゃなくて……」


433: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:31:34.00 ID:oH4Ybz8Uo

 ケイくんは不思議そうに眉を寄せた。

「学校。休みでしょう?」

「……ああ、そうか」

 お兄ちゃんの学校が終わるまでの時間潰し。そのつもりだった。でも、そもそも今日、お兄ちゃんが学校に行っているとは限らない。

「ちゃんと確認しとけばよかったな。時間を無駄にした」

「ううん、どっちにしても、休みってことになったら、簡単に捕まえられないよ」

 まひるに相談して、と言いかけて、朝方、まひるが制服姿で学校に行くと言っていたのを思い出す。

「……部活に出てるかも」

「ああ、同じ部活って言ってたな」

「出てれば、だけど……」

「……あてもなく探すよりは、いくらかマシだろうな。どっちにしてもまひるにはもう一度会いにいかなきゃいけないだろうし」

 どうする、とケイくんは訊ねてきた。わたしは少し考えた。

「……ちょっとだけ、新聞見ていこう。焦ったところで仕方ないし」

 べつに、何かを恐れて後回しにしたつもりではない、と、自分ではそう思っている。


434: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:32:07.79 ID:oH4Ybz8Uo


 受付で新聞の縮刷版の位置を教えてもらい、あまり人気のない館内を歩いていく。
 
 この図書館には何度も来たことがあるわけではないが、わたしの知っているそれとかわりはなさそうだ。
 土曜日とはいえ、近くに大学があるせいだろうか、わたしたちより少し上くらいの学生たちの姿がいくつも見受けられた。
 
 新聞の縮刷版というものをあまり目にしたことはなかったけれど、眺めてしまえばなんということはなかった。

 わたしたちは特に調べたいことがあってきたわけではない。
 とにかく起きたことだけ確認したいだけだ。そうであれば、見出しだけ追っていっても事足りる。
(書いた人には失礼かもしれないけど、時間もまた有限の資源なのだ)

 そして少なくとも全国紙の見出しには、わたしたちに大きな違和感を与えるような内容のものはなかった。

 なつかしさは、あったかもしれない。
 昔は理解できなかった出来事。なんだか騒がれているなあと思っていただけのこと。
 そういうことを、この年になって改めて見てみると、世界の見え方が変わるような感じがした。

 わたしは、世界は徐々に変わっているんだと思っていた。
 でも、そうではないような気がした。

 世界が変わったのではなく、世界を見るわたしのまなざしの方が変わったのだ。
 そんな感じがした。それもまた錯覚なのかもしれない。

 世界は変わっている。でも、その変わり方は、いつもそんなに大きくは変わらないのかもしれない、と。
 少なくとも……まなざしの変化ほど大きく変わることはないだろう。


435: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:32:39.68 ID:oH4Ybz8Uo

 わたしがそんなことを思っていると、ケイくんが不意にわたしの肩を指先でとんとんと叩いた。

「なに?」

 今度は、指をよっつならべて上下に揺らし、「ちょっとこい」のジェスチャー。
 図書館だからって、小声なら話せると思うんだけど。人気のある場所でもないし。

 わたしはケイくんの横に近付いて、彼が手にしていた紙面に目を下ろした。
 地方紙……2008年、8月……。

 ささやき声で、「これ見ろ」とケイくん。
 
 その言葉にしたがって、わたしは見出しに目を落とす。

 少年 遺体で発見……。刺殺……現場には凶器と見られるナイフ……先月の事件……関連を調べて……。
 被害者の名前は……。

「……沢村翔太……?」

「こんな事件、あったか?」

「……あった、のかな。わかんない」


436: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:33:51.38 ID:oH4Ybz8Uo

「書き方によると、どうもこれだけじゃないみたいだ。この前にも、何かあったらしい」

「……だったら、なかったと思う」

 そんなことがあれば、辺りで騒ぎになっていたはずだし、ニュースだってうるさかったはずだ。
 第一、お兄ちゃんだって、この時期は高校生で、それだったら、話題の端にのぼっていてもおかしくないはずだ。

 そんな記憶は一切ない。不安がらせないためにニュースを知らせなかった?
 でも……こういうことがあるからあなたも気をつけなさい、と、おばあちゃんならそのくらいのことは言ってきそうだ。

「どうも、はっきりしないかな……」

「俺は記憶にないんだよな。他のニュースは、ああ、たしかにこんなことがあった、って思い出せるのもあるんだが……」

 これはピンとこない、とケイくんは肩をすくめた。

「まあ、関係ないかもしれないが……少し物騒だ。俺たちも気をつけた方がいいかもな」

「うん。……ね、ケイくん」

「なに」

「少し、外を歩かない?」


437: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:34:31.78 ID:oH4Ybz8Uo

 わたしたちはロビーにあった自販機で紙カップのあたたかい飲み物を買った。
 ケイくんはコーヒー、わたしはカフェラテだ。

 湯気が立つカップを持ちながら、入口から出てすぐに脇の道に進んでいく。

 丘陵地に立つこの図書館の南側には、なだらかな坂道に並ぶ木々の間を縫うような遊歩道がある。
 秋になれば紅葉が綺麗だけれど、見頃にはまだ早い。木々の葉は瑞々しいとまでは言えないにせよ、緑に青に染まっていた。

 鬱蒼としているというほどではないけれど、遠くを見ることはできないほどに、植物は密生している。

 たぶん、誰かが通りがかりでもしないかぎり、誰もわたしたちに気付かないだろう。
 誰も、わたしたちを見つけられないだろう。そんな気がする場所だ。

 少し、肌寒い気もした。日差しはかすかに暖かかったけれど、吹き込む風は冷たい。
 木漏れ日は弱々しく儚げに思える、と、もし口に出したら感傷的だと笑われただろう。

 わたしはモネの絵を思い出した。思い出したあと、あれに比べたら、目の前に広がる景色は少し、当たり前すぎると感じる。 
 あるいは……モネが絵にしたもともとの景色も、こんなふうに当たり前のような姿をしていたのだろうか。

 モネのような景色を見るための才能が、わたしにはないだけで?

 ……よく分からない。


438: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:35:12.36 ID:oH4Ybz8Uo

 わたしはカフェラテに息をふきかけてから口をつけた。
 少し熱い。

「ねえ、ケイくん」

「なに」

「ありがとう」

「……なにが」

「わたしのわがままに付き合ってくれて」

「成り行きだから」

「最初からそうだった?」

 ケイくんは返事をしてくれなかった。わたしは彼の表情を横目で覗く。
 いつものように退屈そうだ。
 そういえば、今朝からずっと、彼は煙草を吸っていない。……たいした意味は、ないのかもしれないけれど。

「ごめんね」

「いいよべつに」

「うん。あのね、ケイくん」

「なんだよ」
  
 少しうっとうしそうに、前を向いたまま、ケイくんは言う。 
 彼のそういう態度はぜんぶ、きっと、見かけより柔らかいものなんだと、わたしはなんとなく気付いていた。

「手をつないで歩きませんか?」

 わたしは、そう言ってみた。
 

439: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:35:53.00 ID:oH4Ybz8Uo

 ケイくんは、呆気にとられたみたいだった。

「なぜ?」

 わたしはケイくんが右手に持っていた紙カップをするりと奪った。
 そうしてから、彼の左手の前にそれを差し出す。

 彼は左手でそれを受け取る。
 開いた右手をわたしの左手が掴んだ。

「……なんだよ、いったい」

「なんでもない」

 これはわたしのずるさかな、と少しだけ思った。
 
 わたしは、少しずつ、余裕を取り戻しつつあった。
 お兄ちゃんのこと、穂海のこと、お母さんのこと、考えることはたくさんあった。知りたいこともたくさんあった。
 
 でもそれは、眼前をすべて覆い尽くしてしまう暗幕のような悩みではなくて、
 ただ本棚の片隅に並べたままいつまでも手をつけられない読みさしの本のようなものなのだ。

 もしその本を読み終えることができなかったとしても、きっとわたしは生きていける。
 ただ、今はそのことが、どうしても気になっているだけで。
 
 そんなふうに考えるだけの余裕が、今のわたしにはあった。


440: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:36:21.68 ID:oH4Ybz8Uo

 だからわたしは、彼の指に自分の指を絡めてみて、どきどきしながら軽く握ってみたりした。
 これはわたしにはけっこう勇気のいることだったんだけれど、
 ケイくんは平然と左手でカップを持ってコーヒーなんて啜っている。

 こなれた感じの態度がなんとなく寂しかったけど、わたしはわざと彼の顔の方を見ないことにした。
 嫌がられないだけでよしとしよう。

 文句のひとつも言わないというのは、これはもう相手がケイくんだということを考えれば奇跡のようなものだ。

 とはいえ会話が急に途切れてしまって、わたしは少し不安になった。
 そこでケイくんの方を見ると、彼もちらりとこちらを見た。

 目が合うと、わたしは照れとも困惑ともつかない落ち着かないきもちに胸の奥がざわつくのを感じて、
 思わずごまかすように笑ってしまった。

 彼は合わせて笑ってくれることもなく、はあ、と呆れたような疲れたような溜め息をつくと、不意に、
 ――キスをしてきた。

 一瞬だった。
 一瞬だったので、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。

「ケイく……」

 思わずわたしは手をはなしそうになった。
 ケイくんは放してくれなかった。おかげで距離を取ることもできない。
 今のは何かと訊ねるには、距離が少し近すぎる。


441: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:37:58.45 ID:oH4Ybz8Uo

 それからも彼は何にも言わなくて、わたしも何も言えなくて、木の葉の落ちる音が聞こえそうな静寂があたりに満ちていた。
 
 いやだったとかそういうわけではなくて、
 とはいえ、前もってなにかあるべきじゃないかとかも思うし、
 でも、いまの状況ですることとは思えなくて、
 かといって、わたしの態度だってたしかにいまの状況にはそぐわないものだったかもしれなくて、
 でもそもそもどんなつもりでそんなことをしたのかとか、
 いろいろ考えているうちに分からなくなって、

 思わず、

「ケイくんは……」

 と、声が出てしまった。

「……ん」

 返事をしてくれたことに、まずほっとした。

「……なんか、慣れてる?」

 彼は立ち止まった。

「あのな」

「だって、なんでもないみたいだった」

「……あのなあ」

「違うの?」

 ケイくんは黙った。


442: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/22(日) 20:38:24.59 ID:oH4Ybz8Uo

「……そろそろ行こうぜ」

 とケイくんは言った。

「うん」

 そうだね、とわたしは頷いた。
 今するような話では、ないのかもしれない。

 わたしとケイくんとの間に、どのような言葉がふさわしいのかも、よくわからない。

 たとえばこんなタイミングで、好きです、付き合ってくださいなんて話をするものだろうか?
 そういうのは、足場がしっかりしている人たちがする話なのだ。

 無人島に遭難したふたりの男女が、結婚してください、なんて話をするだろうか?
 そんなのは結局、平穏が前提の余興にすぎない。

 もしするとしても、こうなるだろう。

『もし、無事に帰ることができたら、僕と結婚してくれないか』

 そう、全部は無事に帰ってからのお話だ。
 わたしはイメージの中で、男役をケイくんにして、女役をわたしにしてみた。

 返事はこうなった。

『でもね、ケイくん、わたしは、結婚とか、家族とか、そういうものがよくわからないの。
 誰かとずっと一緒にいるってことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの』

 あっというまに過ぎ去ってしまった唇の感触がそれでも得がたいものに思えて、 
 わたしはしばらくカフェラテに口をつけることができなかった。


445: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:20:40.92 ID:XRiiSy5uo



 そんなよく分からないやりとりのあとも、わたしたちはふたり並んでバスに乗らなきゃいけなかった。
 妙にそわそわと落ち着かない沈黙は、けれどそんなに居心地悪くはなかった。

 ケイくんは何も言わなかったけれど、ひょっとしたら……もう、頭を切り替えているのかもしれない。
 
 図書館に行ったのは、完全に、とまでは行かなくても、わたしたちのこれからの行動を考えると無駄足に近いことだった。
 
 もちろんまるっきり収穫がなかったとは言わないけれど、それは今の状況には関係のないものだ。
 
 とにかくわたしたちは図書館からとんぼ返りして、今度はお兄ちゃんが通っていた高校に向かうことにした。

 昨日来たばかり……お兄ちゃんの姿も、昨日見たばかりだ。

 さて、危惧すべき問題はいくつかあった。
 
 一、まひる、お兄ちゃん、そのどちらかが学校にいてくれるかどうか。
 二、いるとして、問題なく接触することができるか。
 三、その両方に問題がなかったとして、お兄ちゃんと向き合ってちゃんと話をすることができるか。
 四、仮に会話することができたとして、わたしはそこから何か意味あることを引き出すことができるか。

 とはいえやるしかなかったし、やるとなれば考えることは少なかった。


446: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:21:24.46 ID:XRiiSy5uo

「まひるは文芸部だったな」

「うん」

「少し厄介だな。部室の位置がわからないんじゃ、いるかどうかも確認できない」

「……そうかな?」

 ケイくんは少し不思議そうな顔をした。
 
 校門についたときは、人の姿はあまり見当たらなかった。土曜の昼下がり。
 それはそうだろう、という気がした。

 それでも人がまったくいないわけではなかった。わたしは昇降口の方から校門に向かって歩いてくる二人組の女子生徒に目をつけた。

「少しいいですか?」

 とわたしは声をかけた。ケイくんは面食らったみたいだった。

「はい」

 少し戸惑ったみたいに、二人は立ち止まってくれた。

「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですけど、文芸部の部室はどちらでしょう?」

「文芸部……? 知ってる?」

 ふたりは顔を見合わせて、首を横に振った。

「でも、文化部なら南校舎でしょ?」

「南校舎……」


447: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:21:50.45 ID:XRiiSy5uo

「――ねえ、ちょっと。まずいよ」

 ふたりの片割れが、不意に小声でそう言うのが聞こえた。

 もうひとりも、あ、というふうに口を抑えた。

 それから少し考える素振りを見せて、

「ご用事でしたら、職員室の方にご案内しますよ」

 少しこわばった顔でそう言い加えた。
 さて、どうしたもんかな、とわたしは考える。

 さすがに職員室は避けて通りたいところだ。

「ああ、そうですね。そっちを訊けばよかったんでした。でも面倒でしょう。職員室の場所だけ教えてもらえますか?」

 二人組は戸惑ったような表情になる。

「三年の迫間まひるさんを知っていますか? 文芸部の方で、わたし、彼女に部活のことで呼ばれてきたんです」

 ふたりは顔を見合わせた。
 
「ええと、わたしたち、他校の者でして。文化祭のことで何か相談があるとかで……」

 口からでまかせをいいながら、わたしは、他校の人だったらきっと制服で来ただろうなあ、とぼんやり思った。
 でも、ふたりはそのあたりのことを疑問に思わなかったらしい。

「ああ、そうなんですか」とほっとした様子で息をついていた。

「職員室は、昇降口から入ってすぐのホールを右に曲がると見えると思います。やっぱりご案内しましょうか?」

「いえ、場所だけ分かれば大丈夫です。顧問の先生に案内してもらえるはずですから」

 どうもありがとうございます、と頭を下げて、わたしは堂々とした素振りで昇降口に向かった。


448: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:22:16.82 ID:XRiiSy5uo

「無理がある」とケイくんは言った。

「そう?」

「他校の人間なら制服を着てくるはずだ」

「それはわたしも考えた」

「どうせ職員室にいけば案内してもらえるなら、最初から職員室の場所を聞くだろう」

「言われてみれば」

「よくこんな無茶する気になったな」

「だっていざとなったら逃げちゃえばいいし。それに、堂々としてればそんなに疑われないかなあって」

「……まあ、それはそうだろうが。でも、妙に警戒されてたな」

「うん。人ってもっと他人に無関心なものだと思ってたよ」

「まあ、普段ならそうかもしれないけどな」

「……普段? って?」

「高校生の死体が見つかったばっかりだって、さっき新聞で見たろ」

「ああ……」

 なるほど。知らない人を警戒するくらいはするか。

「とはいえ、俺たちはどう見ても高校生にしか見えないだろうから、そんなに疑われはしないだろうけどな」

「男女二人組だしね?」

「それは理由になるのかな……」

「男二人よりは疑わしくないと思う」

「……まあ、そういう人もいるかもしれない」


449: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:22:47.85 ID:XRiiSy5uo

 話しながら、わたしたちは昇降口に入った。靴は、少し迷ったけれど、適当な下駄箱に隠して、脇に置いてあったスリッパを借りることにした。

「とりあえずまひると合流できないと、ただただリスキーだね」

「南校舎か……。どうやっていくんだろうな」

「外観で大雑把な位置は把握できるでしょ。ま、職員室を避けて歩こうよ」

 そういうわけで、左右に伸びた通路の様子を窺い、物音をあまり立てないようにしながら、わたしたちは左側へと進んだ。

「ちょっとどきどきするね」

「ちょっとどころじゃない」

「後悔してる?」

「乗りかかった船」

「泥舟でごめんね」

「沈んだら竜宮城でも探すよ」

「竜宮城……うん。そうだね……竜宮城か」

「どうした」

「ううん。この世界が竜宮城かもしれないよね」

「ああ?」

 ケイくんはちょっと苛立ったみたいな顔をした。
 ピリピリしてる。さっきはあんなことしたくせに。


450: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:23:24.48 ID:XRiiSy5uo

「ほら、浦島太郎が元の世界に戻ると……」

「ああ、なるほど」

「それはちょっと困るね」

「本末転倒だな」

「うん」

「まあ、玉手箱さえ開けなきゃいいだけだろ」

「そうかな?」

「そんなもんだろ」

「どうかな」

 わたしたちは「こっちかな?」という方向に進んでいく。平然と話をしながら。
 足音もあんまり隠していない。
 
 人気がないから調子に乗った、というわけではないけれど、あんまり隠れたら帰って誰かに勘付かれそうな気もしたのだ。

 実際、いざとなれば逃げればいい。なにせわたしたちには、捕まってバレたところで困るような身元なんて存在しないのだし。

 そう考えると、わたしたちはけっこう危険な存在なのかもしれない。

 何をやっても咎められない……。
 
「……あとで考えよ」


451: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:24:14.05 ID:XRiiSy5uo

「こっちの方かな」と思った方に、都合よく渡り廊下があった。とりあえず、「南校舎」という名前の通り想像すれば、だが。

「問題はここからだな。何階建てだ、ここは」

「四階建てかなあ」

「部室にプレート、あると思うか?」

「あったら嬉しいね」

 そうして、実際あった。使用されているらしい教室には、プレートが取り付けてあった。
 そして、どの教室からも、話し声も物音も聞こえない。ほとんどの部活は活動していないらしい。

「不思議なくらい都合がいいな」

「信号に引っかからない日だってあるよ」

「おんなじ話か? それ」

「わたしたちが校門にいたときに、まひるが気付いて降りてきてくれれば、いちばん都合がよかったよね」

「……まあ、そういう言い方をすると、そこまで都合がいいわけでもないか」

「人気がないのは……事件のせいかな、やっぱり?」

「それもありそうだ」

「リーマンショックを予期してみんなナイーブになってるのかも」

「後に起きることを知っている立場にいる人間としては」とケイくんは言った。

「そういうふうに見えなくもないだろうな」


452: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:24:50.61 ID:XRiiSy5uo




 文芸部の部室は三階にあった。扉の向こうから話し声が聞こえる。
 雰囲気は、どうやら生徒たちだけだが……顧問でもいると面倒だ。かといって、ここで突っ立っていても危ない。

「どうする?」とケイくんが小声で言った。

「まひるがいなかったらまずいよね」

「顧問がいてもまずい」

「そうだね。じゃあ、こういうことにしない?」

 わたしはわざとらしく人差し指を立てて見せた。

「もし不法侵入を咎められたら……バカで非常識で考えの足りない人のふりをしよう」

「……全部事実じゃねえかよ。身元の確認されたら?」

「んー、偽名とかでいいんじゃない?」

「……もう真面目に考える気ないだろ」

「失敗したときのこと考えたって仕方ないよ」

 言いながらわたしは扉をノックした。

「バカ!」

 とケイくんが控えめな声で呟くのを無視して、わたしは引き戸を開けた。


453: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/01/29(日) 22:25:24.83 ID:XRiiSy5uo


「失礼します。まひる、いますか?」

「あ、愛奈ちゃん」

 まひるは平然とこちらに手を振ってきた。ホワイトボードに向かって、何かを書き込んでいるところだったようだ。
 他の部員たちは、三、四人。全員生徒だ。教師はいない。賭けには勝ったらしい。

 まひるは笑う。

「大胆だね。とりあえず、中入っちゃって。ケイくんも」

「……まひるは動じないね、ケイくん。すごいよね」

「俺に言わせれば、おまえも似たようなもんだよ」

 ケイくんは溜め息をついた。

 さて、とわたしは少し緊張しながら部室の中の生徒の顔を見回す。

 お兄ちゃんは……いない。

 わたしは溜め息をついた。安堵なのか落胆なのか、自分でも区別がつかなかった。


457: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:19:36.48 ID:SatUv8IDo

「よくここまで来られたね、ふたりとも」

 まひるはにっこり笑う。その笑顔がなんとなく、作り笑いめいていた。
 どうしてだろう、と少し考えて、まあそういうこともあるだろう、と納得する。

 わたしだって教師や大人に取り囲まれれば愛想笑いくらい浮かべる。
 まひるが誰に対してそうしていたって、誰かに責められる謂れもないだろう。

「先輩、その人たちは?」

 訝しげな顔をする部員たちに、まひるは平然と返事をする。

「わたしの友達」

「が、どうして部室に?」

「さあ? どうしてだろう?」

「あ、ううん。お兄……」

 言いかけてこの呼び方はまずいかな、と思い直す。

 そもそも、呼び方以前の問題か。他の人がいる前で、わたしが「碓氷遼一」を知っているように振る舞うと不自然だ。

「それで、どうだった?」

 まひるはそう訊ねてきた。わたしは頷いた。


458: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:20:03.88 ID:SatUv8IDo

「うん。まあ、どうにか」

 帰る方法は見つかった、とこれだけで伝わるだろうか?

「どうして学校に?」

「少し確認したいことができたから」

「ふうん……? そっか。そうだね。うん。ちょうどよかったかもしれない」

「……何が?」

「そのまえに、ね、ふたりとも、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだ」

「……相談?」

 どちらかというと相談したいのはこちらの方なんだけど、と思いながらも、あたりの目を気にして頷く。

 部室にいる生徒はまひるを含んだ四名。全員が女子。さっき「先輩」と呼んでいた人がいたから、下級生も含まれるのだろう。

「実はね、今月末にうちの学校の文化祭があるんだよ」

「はあ」

「それでわたしたち文芸部も、部誌を出すことになってるんだけど……」

 まひるはそこで一呼吸おいて、にへらっと笑った。

「ちょっと困ったことになってるんだよね」


459: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:20:38.20 ID:SatUv8IDo

「困ったこと?」

「手伝ってくれるとうれしいかな」

「断る」

 ときっぱり言ったのはケイくんだった。

「あはは。ケイくん、わたしのパンツ履いてる分際で偉そう」

 軽い口調のまひるの呟きに、三人の部員たちが顔を見合わせてこそこそと話を始めた。

「下着……」「どういう関係……?」「変態……」

「殺すぞ」とケイくん。まひるは平気そうに笑う。

 ていうか、まひるの風評にも被害がありそうだけど。

「否定しない……」「まさかほんとに……」「先輩って意外と……」

 やっぱり。

「それで相談って?」
 
 ケイくんが見知らぬ女の子にどういう目で見られようとわたしは痛くも痒くもないので、話をそのまま進めることにした。
 まひるは目を丸くしたあと、ちょっとつまらないような顔をして、「そうそう」と話を戻す。


460: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:21:45.07 ID:SatUv8IDo

「部員たちがね、部誌に寄稿してくれないんだよ」

「はあ。それは大変ですね」

 ケイくんはあからさまに不機嫌な顔をして、勝手に部室の奥に入り込むと、出しっぱなしにしてあったパイプ椅子にドンと腰掛けた。

「このままだと部誌の総ページ数が8ページ」

「ずいぶんぺらぺらだね」

「うち2ページは表紙、と表紙裏の白紙」

「実質6ページか」

「そのうち5ページの担当者はわたし」

「……この場にいる奴らは何をやってるんだよ」

 ケイくんの呆れたような口調に、三人の部員たちが顔を見合わせる。

「この三人はまあ、がんばってくれてるんだけど、みんな一年生だからね。ちょっと遅れがあるのは仕方ないし」

「他の部員は?」

「大半が幽霊部員。ほら、わたし人望ないから」

 そうは見えないけれど……。

「でね、よかったらふたり、何か書いてくれない?」

「は……?」

 ケイくんはイライラしているみたいだった。
 わたしもまあ、戸惑いはした。


461: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:22:27.02 ID:SatUv8IDo

「部外者だよ、わたしたち」

「うん。そうだけどまあ、べつに問題ないし」

 ないんだ。ありそうなのに。

 開け放した文芸部室の窓からは中庭の大きな欅が見えた。
 首でも吊れそうな太い枝だな、とわたしはぼんやり思う。

「……大半が幽霊部員っていっても、全員じゃないんだろ?」

「まあ、あと数人はいるんだけど……なんか面倒で」

 まひるがあっさりした口調でそう呟くと、他の部員たちが困った顔で頷いた。
 それにしても、この子達も順応性が高い。まひるが平然としているから、気にしていないのかもしれない。

「一応、わたしも部長だし、書いてくれそうな人に声かけたりもしたいところなんだけど」

「しろよ」

「うん。でもね、あんまり興味を持てる相手がいなくてさ」

「先輩ひどい」「ひどーい」

 部員たちの声。みんながからからと笑った。

「こっちも興味なくて、あっちも書く気ないのに、書いてくれって声かけるのって、ほら、失礼じゃないかな?」

「……」

 どうやらまひるは、真剣にそう思っているようだった。


462: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:22:58.23 ID:SatUv8IDo

「だからって、わたしたちに言われても」

「うん。べつに無理に頼もうとは思わないんだよ。薄くても問題ないっちゃないわけだしねー」

 でもほら、見た目がね、とまひるは苦笑する。

「多少厚い方が、迫力あるでしょ?」

「そんなの、数枚分白紙の原稿並べて、タイトルに『タブラ・ラサの不可能性』とでも書いとけよ」

「あは。意味分かんないけどそれ採用」

 まひるは本当に面白そうに笑った。

「ケイくん、名前はなんて書いておく?」

「俺の名前でやるな」

「でもケイくんのアイディアだし」

「ページの水増しなんて、読む奴の心証悪くするだけだ」

「でもほら、なんか現代アートっぽくない? 他人の顔色窺わない感じもまた」

「バカかよ」

 ふたりが話す姿は、とても自然なものに見えて、わたしはそのせいでいくらか落ち着かなくなる。
 

463: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:23:32.55 ID:SatUv8IDo

「他に部員はいないの?」とわたしは訊ねた。

「他……?」

 まひるは、その話はさっきしたはず、と言わんばかりの顔をした。
 わたしは少し考えた。

「えっと……ほら、前に話してた、碓氷って人とか」

 ああ、という顔を彼女はする。

「今はいないよ」

「どうして……?」

「用事があるって言って、抜けちゃってる」

「……ね、彼は原稿を書いたの?」

「ううん。いまのところ。気が向いたら書くって言ってたけど、わたし興味ないし」

「……」

 わたしは興味があるんだけど、とまひるに言ったところで仕方ない。


464: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:24:15.61 ID:SatUv8IDo

「まあ、ふたりとも、よかったら部誌に協力してよ。ほら、バックナンバー参考にしていいから」

 そう言ってまひるは壁際の書棚を指差す。

「……そのうち戻ってくると思うよ」と、最後にまひるは言った。
 
 わたしは溜め息をついて、書棚に近寄る。
 仕方ない。今は待つしかない。自然に顔を合わせるために。

 いや、この場で会うことが果たして自然なのか、わたしにはわからないけど。

 退屈しのぎに、わたしは示されたバックナンバーのいくつかを手に取った。

「ところで、あの、質問なんですけど」

 さっきからこそこそ話をしていた部員たちが、わたしとケイくんを交互に見ながら口を開いた。

「ふたりは付き合ってるんですか?」

「いいえ?」

「先輩とはどういう関係なんですか?」

 ケイくんは何も答える気がないらしい。わたしは小さく溜め息をついた。

「わたしは会ったばかりだけれど」と言ってから、ケイくんを指差す。

「この人は下着を借りるくらいの関係性らしいですね」

 ケイくんは、好きに言え、というふうに肩をすくめてみせた。


465: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:24:50.99 ID:SatUv8IDo

「服が汚れた。替えがなかった。そいつが持っていた。借りた。それだけだよ」

 端的でありながらも不機嫌そうな強い口調に、女の子たちは圧倒されたみたいだった。

 気になることがまだあるようだったけど、さすがにそのまま続ける気にはならなかったらしい。
 三人が黙ると、今度はまひるが手を打ち鳴らして、またホワイトボードに向かった。

 わたしたちのことはとりあえず放置して、話し合いを再開するらしい。
 内容は、どうやら、さっき言った文化祭のこと。
 
「ついに今月末かあ。あっというまだね」

「しばらくバタついてたもんね……」

「でも、本当に文化祭するつもりなのかなあ。何かあったら……」

「そうは言っても、そんなこと言ってたら学校来られないし」

「それはそうなんだけど……」

「こら。話聞いてる?」

「はい」「聞いてます」「すみません」

 ……バタついてた?


466: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:25:19.15 ID:SatUv8IDo


「ねえ、まひる……」

「ん?」

「バタついてるって?」

「あ、えっと……知らない? あの、ほら。うちの高校の生徒が……」

「……ひょっとして、例の死体か?」

 黙っていたケイくんが口を挟むと、まひるは気まずげに頷いた。

「そうそう。さすがに、うちの高校だけで二人目だからね……」

「怖いよね」「犯人、捕まってないんだよね?」「さすがにもう終わりじゃないのかな……」
「関連性が見つかったってテレビで言ってた」「なにそれ?」
「ほら、一人目の男の子と、うちの学校の沢村って人が同じ中学で……」
「だったら、無差別じゃないってことなのかな?」「でもさ、無差別じゃないとしたら、うちの学校の生徒が怪しくない?」
「たしかに。個人的な恨みとかでってことでしょ?」「でも、沢村先輩は知らないけど、弓部先輩が恨まれるとは思えないけど……」
「……あのさ、わたし知ってるんだけど、うちの部の碓氷先輩ってさ……」「碓氷先輩?」
「被害者の男子生徒ふたりと同じ中学だったんだって……」「え、嘘」「じゃあ何か知ってるのかな?」「心当たりあったりして」
「本人が犯人だったり?」「ちょっと、やめなよ」「ごめん、冗談」「でも、可能性としてはあるよね。全員と繋がりあるわけでしょ?」

「みんなストップ。あんまり良い趣味じゃないよ。不安なのも分かるけど、今は忘れよ?」

 まひるの声で、女の子たちの会話が止んだ。
 まひるが趣味の良し悪しを気にするのは少し意外だった。


467: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:27:28.67 ID:SatUv8IDo

 わたしは少し今の話題について考えてから、部誌のバックナンバーを手慰みにパラパラとめくりはじめた。
 なんとはなしに目を通し始めたのだが、不思議と目が止まるページがあった。


  おなかがずいぶんすきました
  すきました ので ごはんをたべます
  たぶん いつもの サラダとスープ
  玉子がない から うまくいかない

  あとで掃除をしようと思って
  こたつに入って テレビをつけて
  そうしたらほら もう動けない
  今日の降水確率は
  どうやらずいぶん高い様子で
  平らな平らな灰色ぐもは
  気鬱のわけには恰好で

  灰色の雲があるせいと
  いつもの玉子がないせいで
  こんな怠惰な生活です
  そういうことにしておきました


「生活」と題された詩のようだった。
 作者の名前はない。

 四つか五つほど、似たような詩が並んでいる。
 こういうのだったらわたしにも書けるかもしれない。


468: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:28:21.65 ID:SatUv8IDo

 ……そういえば。
 お兄ちゃんは、元の世界の、お兄ちゃんは、高校時代、何かを書いていたはずだ。
 わたしはそれを読んだことがある。お兄ちゃんに隠れて、勝手に部屋に忍び込んで。

 どんな内容だったっけ……?
 
 ――風船は、がらんどうなので、

 ――からかうように、ぱちんと弾け、

 ……なんとなく、思い出せる部分と、思い出せない部分がある。

 少し、思いつく。
 ひょっとしたら、この世界のお兄ちゃんと話すよりも、お兄ちゃんの考えに近付けるかもしれない方法。

 この世界の、この時間のことをヒントに、お兄ちゃんと過ごした日のことを、わたしが思い出す。
 そうすることによって、わたしは改めて彼に近付けるかもしれない。

 それはちょうど、本と読み手の関係のようだ。

 ある種の読み手が文章を読むとき、彼は文章そのものを読んでいるだけではない。
 文章から読み手自身の思想や記憶を連想し、“書かれていないこと”を読み始める。

 そうすることによって、文章は完成する。
 この世界、この時間という“文章”を、
 わたしという読み手が、わたしの記憶と思想のはたらくままに任せ、“解釈”する。
  
 結果、そこに新しい“物語”が生まれる。
 それは不可能ではなく、突拍子もない夢物語でもないように思える。

 試しにやってみよう。
 お兄ちゃんは、どんな文章を書いていたっけ?
 

469: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:28:56.67 ID:SatUv8IDo




  風船は がらんどうなので、
  軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
  針でつつけば ごらんのとおり
  からかうように ぱちんと弾け
  川面に浮かんだ あぶくのようだ
  
  風船は がらんどうなので
  割れてもだれも気にしません
  割れてもだれも気にしないのに
  割れてもだれも気にしないことを
  みんながみんな気にしていません

  みんな気にせずぷかぷか浮かんで
  よくも平気でいられるものだ
  どんなにぷかぷか浮かんでも
  どうせ割れるか萎むかするのに


470: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/05(日) 23:29:29.73 ID:SatUv8IDo





 ――そうだ。
 
 お兄ちゃんは……“風船”が好きだった。
“好き”? 違う。
 愛着を持っていた、と言っても間違いだ。

 お兄ちゃんは、風船に、“何か”をオーバーラップさせていた。

 お兄ちゃんの書いた文章を隠れて読んだとき、なぜだかたまらなく怖くなったことを覚えている。

 そこに何が書いているのかは、わたしにはわからなかったけど。
  
 お兄ちゃんはやさしくてあたたかい人だった。

 でも、それは本当だろうか? 仮に事実だったとして、それだけ、だっただろうか。
 
 あの韜晦の裏に、お兄ちゃんが隠していたもの。
 わたしはそれを、もしかしたらどこかで目にしていたんじゃないか……?


473: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:17:09.70 ID:VA9fawCVo



 リノリウムの床の上、並んでいたいくつもの扉のことを思い出す。
 高い天井、開けた空間、壁に向かって、けれど壁に接さず、扉は三つずつ規則正しく並んでいた。
 
 それぞれに異なった意匠、色合い、大きさ、高さ、厚さ。
 けれど、それらは本質的に似通っていた。

 人間そのものと似ている。

 人にはそれぞれ、個性というものがある。固有性というものがある。
 髪や肌や目の色に始まり、性別、目鼻立ち、手足の長さ、爪の形、体型、骨格、歯並び……。
 どれをとっても個性があり、ほとんど誰とも重ならない。どこかが似通っていてもどこかで違っている。

 人間の顔がある。
 目が大きいのもあれば小さいのもある。鼻の位置が高いのもあれば低いのもある。
 髭が生えているものもあればないものもあり、唇が薄いのもあれば厚いのもある。

 でもそれはあくまでバリエーションであり、個々の違いは、さまざまな顔を一貫する共通点に比べればごく些細だ。
 
 扉もそうだ。
 意匠は違う。大きさも厚さも、それぞれ違う。デザインのコンセプトだってそうだろう。
 
 でも、本質は同じだ。

 その扉たちは、どこも繋がっていない。
 ドアは本来、遮断の為の壁に、開閉できる開口部を作る為に存在している。
 
 つまり、扉は壁についていなければ意味がない。ただ扉だけがあるならば、それは何の用も成さない。

 どこにも繋がっていない扉。いくつ開け放してみてもどこにもたどり着けない扉。
 
 そこはドアのショールームだった。


474: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:18:10.74 ID:VA9fawCVo

 あの夏、わたしとお兄ちゃんは手を繋いで、ドア製造工場のショールームに向かった。
 当時わたしは小学生で、お兄ちゃんは高校生だった。

 関連企業の製品宣伝を兼ねた催事が、その事業所の敷地内で行われた。
 
 子供向けのヒーローショーがあるというので、退屈していたわたしと、珍しくバイトが休みだったお兄ちゃんは、そこを訪れた。
 
 そういうことは覚えているけれど、印象に残っているのはむしろ、賑やかな催しものではなく、立ち並ぶドアの光景だった。

 どこにも行き着けず、繋がれず、ただそこで無表情に立ち並ぶだけの無数の扉。
 
 それをわたしは少し怖いと思った。

 あのときお兄ちゃんが言ったことを、わたしは不思議と思い出せる。

「たくさんあるね」とお兄ちゃんは言った。

「うん」

「全部ここで作ってるんだろうね」

「なんだか不思議」

「なにが?」

「なんだか……分からないけど、少し怖い」

 お兄ちゃんは、そうだね、と少し笑った。

「たぶん、どこにも繋がっていないからだろうね」

 そうだ。
 お兄ちゃんはそう言った。

「扉を開けてもどこにも辿り着けないのは、怖いね」


475: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:18:36.34 ID:VA9fawCVo



 扉が開く音がして、わたしは物思いを中断させられた。

「おかえり」とまひるが扉の方を見て笑った。

 わたしはそちらに視線をやる。

「あ」と思わず声が出たけれど、小さすぎて、たぶん誰にも気付かれなかっただろう。

「ただいま戻りました」

 と、彼はそう言ったあと、わたしとケイくんの方を見て怪訝げに眉を寄せた。

「誰……」

 そう訊ねかけて、彼は息を呑んだ。
 
 わたしたちは、彼と既に顔を合わせている。
 昨日、まひると出会う前、この学校の校門で、わたしは一度彼に声を掛けた。

 碓氷愛奈を知っていますか。
 知りません。君は誰ですか。


476: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:19:13.30 ID:VA9fawCVo

「わたしのともだちです」とまひるは言った。

「部長の……?」

「部誌の製作の手伝いをしてくれます」

「……部外者なのに?」

「碓氷くんよりあてになるもの」

「……相変わらずひどい言いようですね」

「それより、頼んでたものは見つかった?」

「ああ、ありましたよ。これでよかったんですよね?」

 そう言って彼は、一冊の本をまひるに差し出した。

「あ、うん。これこれ。ありがとう」

 わたしはまひるのほうをちらりと見た。彼女は嬉しげに本の表紙をこちらに向ける。

"R62号の発明・鉛の卵"……安部公房だ。

「ねえ、きみ、昨日……」

 お兄ちゃん……"碓氷遼一"は、わたしの方を見て何かを言いたげにする。
 わたしは体がこわばるのを止められない。

 ああいったい、この人を前にしてわたしに何が分かるだろう。
 

477: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:20:01.88 ID:VA9fawCVo

 それでもここは……お兄ちゃんが望んだはずの世界だ。
 
「こんにちは」とわたしは笑ってみせた。

 碓氷遼一は面食らったような顔をした。

「ああ、こんにちは」

 まひるも人が悪い、と言うべきなのか、それとも、彼がここに来ることを言わなかったのは彼女なりの気遣いと考えるべきか。
 たぶん、後者なんだろうな。なんとなくそう思う。

「昨日も会った気がするけど……」

「そうですね」とわたしはかろうじて答える。

「ああ、やっぱり。それで、手伝いって……?」

 碓氷遼一の質問に、まひるが答える。

「うん。部員たちのやる気がないから、よその人に協力してもらおうと思って」

「いやだから、部誌ですよね……?」

「筆名使えばバレないバレない」

 三人の下級生たちがクスクス笑う。
 わたしとケイくんは顔を見合わせて軽く溜め息をついた。


478: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:22:22.32 ID:VA9fawCVo


「許可取ってるんですか?」

「いや、だからね、碓氷くん。バレないんだってば」

「……マズイですよ、いくら土日だからって部外者は」

「うんうん、そうだね。碓氷くんはいつも正しいね」

「……聞く耳持たないんだからなあ、まったく」

 ああ、本当だ。
 この碓氷遼一は――お兄ちゃんとは違う。

 まったく、違う。ぜんぜん。顔つきや、姿形は似ているのに、仕草も表情も言葉も……全部お兄ちゃんじゃない。

 本当に、こんな人から、わたしのお兄ちゃんについての何かが分かるんだろうか……?

 自分の不安を、頭を振って否定する。

 だからこそ、と、ついさっき考えたばかりのはずだ。 
 


479: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:23:20.31 ID:VA9fawCVo

「ねえ、碓氷くん、それでお願いがあるんだけど」

「なんですか」

「そっちの子。愛奈ちゃんていうんだけど、その子に原稿の書き方教えてあげてくれる?」

「……なんで俺が」

"俺"だって。
 こんな人が、碓氷遼一を名乗っていると思うと、なんだか変だ。

 ……いや、違うのだろうか。

 ここがお兄ちゃんの望んだ世界だとしたら、むしろ、この姿こそが、お兄ちゃんが望んだ自分のあり方なのかもしれない。

 そう考えると、無性に落ち着かない気分になる。

「こっちの」と、まひるはケイくんの腕を引っ張った。

「子には、わたしが教える」

「俺は書かない」

「きみは書くよ、ケイくん」

 妙に確信のこもった声で、まひるは言った。ケイくんは返答に窮したみたいだった。


480: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:25:00.35 ID:VA9fawCVo

「そういうわけで協力してあげて」

「協力って、部長、未経験者なんですか、ひょっとして」

「うん。いや、どうかな? 知らない」

「知らないって……」

 碓氷遼一は頭を抱えた。

 なんだか、こういうふうに見ると、お兄ちゃんというよりは、ただお兄ちゃんに似ているだけの、同い年くらいの男の子に見える。

 いや……一応、高校二年生だから、わたしの一個上なのか。
 じゃあ、先輩ってことになる。そう考えて思わず笑うと、碓氷遼一はこちらを見て毒気を抜かれたように溜め息をついた。

「きみ、書けるの?」

「書けます」

「何を?」

「風船についての詩とか」

「風船……?」

 碓氷遼一は怪訝そうな顔をした。
 ピンとこないらしい。


481: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:25:49.07 ID:VA9fawCVo

「詩……?」

「小説がいいよ」とまひるが言った。

「部長はやたら小説推しますね」

「小説がいい。なんでもありだから」

「詩だってなんでもありでしょう」

「そう? 詩ってむずかしくない?」

「人によると思いますよ」

「でも愛奈ちゃんはきっと小説向きだと思うんだ」

「本人の意思に任せましょうよ」

「じゃあ本人の意思と碓氷くんの手腕に任せるから、よろしく」

 そう言うとまひるはケイくんの方を向いた。本当に放り投げるつもりらしい。

「……参ったな」

 口車に乗せられた格好になった碓氷遼一は、困ったように顎のあたりを人差し指で掻いた。


482: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/12(日) 23:26:27.79 ID:VA9fawCVo

「よろしくお願いします」と、わたしは言う。
 緊張や違和感もどこへやら、ふたりのやりとりを見ているうちに、わたしはこの状況が楽しくなってきた。

「……わかったよ」

 わたしは心の中でまひるに感謝した。大事なことは何も伝えていないのに、彼女はしっかり配慮してくれる。
 恩返し、考えとかないと。

 さて、とわたしは頭を切り替える。

 この人に隠された、お兄ちゃんの望みを暴いてやる。
 きっと、どこかに含まれているはずだ。

 そうして、確かめてやる。
 どうしてこの世界に――お兄ちゃんの望んだはずの世界に――わたしがいないのか。
 
「よろしくお願いします。……碓氷先輩」
 

485: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:38:14.27 ID:EnAtfhS9o




「何を書くにせよ」と碓氷遼一は言う。

「結局は本人がどういうつもりなのかだけが問題なんだ」

「どういうつもり、っていうと?」

「何を書きたくて書きたくないか。だから本来強制されることでもないし教わることでもない」

 碓氷遼一は、ずいぶんとはっきりとした言い回しを好む様子だった。
 そこには予断や冗談が挟まる隙間さえなさそうに思える。

 それについての判断を一旦保留にして、わたしは彼との会話を続ける。

「つまり、ひとりで考えろ、と?」

「それが一番だと思う」

 そんな会話のあとに彼はわたしの前に原稿用紙をさしだした。
 引きうけたようなことを言っていたけれど、どうやらあんまり乗り気ではないらしい。


486: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:38:43.65 ID:EnAtfhS9o

 まあ、とはいえわたしとしても、本当は文章の書き方なんてまったく興味がない。
 
 原稿用紙を受け取って、筆記用具を借りる。シャープペンシルを手に考え込んだふりをする。
 さて、何を話したものだろう。

「碓氷先輩」

「なに?」

「ちょっと意見を聞きたいんですけど」

「うん」

「突然、未来から来たって言われたら、どうします?」

「時をかける少女か?」

 言われてみれば。

「何言ってんだって思うだろうけどな」

「ですよね」

「タイムリープもの?」

「え、何が?」

「いや、そういう話を書くのかと……」

「なんでわたしが?」

「……」

 碓氷遼一は不機嫌そうに眉をひそめた。さすがにちょっとからかいすぎたか。


487: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:39:10.08 ID:EnAtfhS9o

「えっと、それはともかくです」

 ああそうか、この状況だと、碓氷遼一にとってわたしは、一個下のよくわからない後輩ってことになるんだな。
 なんだか不思議な感じがした。

 彼から見たら、まるで物語みたいだろうな。

 たとえばほら、ある日突然奇妙な女の子に出会う。
 その子と話して仲良くなる。そして何かのきっかけで、彼女が未来から来たことを知ってしまう。
 実は彼女は彼の姪で、死んでしまった彼の面影を追って不思議な力で時間を遡ってきたのだ、と。

 あとひとつくらい何かを足せば、本当に物語みたいだろう。
 もっとも、それを裏側から眺める気分はあんまり良いものとは言いがたかった。

 本当に、ときどき、生活というものは、「物語みたいだ」と、他人事のように思わせてくれる。
 その現実感の遠さが、反対に「物語らしさ」を剥奪していくような気がする。

「……ともかく?」

 わたしははっとして彼の顔を見た。怪訝気な表情。おかしなやつだと思っているのかもしれない。


488: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:40:32.22 ID:EnAtfhS9o

「未来から来たっていうのは、とりあえず、いいです。じゃあ、未来を知ってるって言われたら?」

「信じないだろうと思うよ」

「そうですよね」

「確かめようもない」

「うん。たしかに。なるほど……」

「それがどうしたの」

「ううん。未来を知ってても、誰も信じてくれないなら、意味がないなあ、って」

「まるで知ってるみたいに言うね」

「あはは」

 とわたしはこっちの世界に来てからはじめてわざとらしく笑った。
 ケイくんやまひるほど、気の抜ける相手ではない……。相性が、あまりよくない、ということだ。

 なんとなく、"当たり前のことを、当たり前にできる、当たり前な人"、という感じがする。


489: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:41:00.64 ID:EnAtfhS9o

「知ってることは知っていますよ」

 でも、わたしは正直に答えることにした。

 結局のところ、率直さというものを軽視するべきではないようだ。
 曖昧にしたってごまかしたって、話はいつまでも進められないままだ。
 
 もやもやとさせていたってストレスが溜まるだけの平行線。
 そんなに時間があるわけでもない。切り込んでいかなければならない。

 もちろん、かといって、こんな言葉、どうせ信じてもらえないだろうけど。

「どのくらい未来について?」

「七年後くらい。まあ、知っていることは、ですし、当たらないかもしれないけど」

「じゃあ訊きたいことがひとつあるんだけど」

「はい?」

「ハンターハンターってちゃんと完結する?」

「……わたしが知るかぎりでは、まだ終わってませんね」

「そっか。ふうん。いつ終わるんだろう」

 ……前言撤回。
 この人も、やっぱり、どこか変だ。

 お兄ちゃんとは、違う意味で。


490: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:41:26.84 ID:EnAtfhS9o

「碓氷先輩って……変ですね?」

「心外だな」

 といって、碓氷遼一は溜め息をついた。

「カサンドラってあるだろ」

「はい?」

「カサンドラ」

「……なんですか、それ」

「ギリシア神話。知らない?」

 有名だと思ったけど、と碓氷遼一は首を傾げる。本当に変わった人だという気がしてきた。
 参考になるんだろうか? 色んな意味で。

「神様の寵愛で予知能力を手に入れたんだけど、神様の呪いでその予知を誰も信じてくれなくなったっていう、女の人」

「なんですか、その……」

「うん。タチ悪いよね、神様って。まあ、神様っていうか、アポロンなんだけどね」

 ああ、アポロンなら納得。やりそう。

「まあ、そんなのなくたって、予知なんて誰も信じないだろうけどね」


491: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:42:02.03 ID:EnAtfhS9o

「先輩は……」

「ん?」

「未来と過去、どっちかを見られるとしたら、どっちが見たいですか?」

「ん。柳田国男とか好きなの?」

「違います。ただの質問です」

「そっか。残念」

 どうして柳田国男が出てくるんだろう。衒学趣味な人なんだろうか……。

 いや、違う……。

 柳田国男。
 お兄ちゃんも読んでた。

 柳田国男なんて読む高校生、なかなかいない。

 ひょっとしてお兄ちゃんは……。
 自分の知識を、ひけらかえしたかった? だから、こんなふうに?

 あるいは、誰かに話を聞いてもらいたかった?

 もしかしたら、もっと単純に、自分の好きなものについて、誰かと話したかったのかもしれない。

 今の段階じゃ、何も決めつけることはできないけど。


492: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:43:08.56 ID:EnAtfhS9o

「そうだなあ。どちらかというと、未来がいいな」

「どうしてですか?」

「過去のことは、まあ、本なり映画なりで、事実はどうあれ、なんとなく輪郭は掴めるだろう。
 でも、未来のことはどうしようもない。見当もつかない」

「……三日以内に」

「ん?」

「世界的な金融危機が起きますよ」

 あるいは、起きないかもしれないけど。
 本当のところ、わたしは、「この世界」については何も知らないし。

 碓氷遼一は目を丸くして、何か考えるような間を少し置いたあと、笑った。

「それは困ったね」

 カサンドラ。
 でも事実は逆だ。

 わたしは過去が見たかった。だからわたしはここにいる。

「ところで、先輩」

「ん?」

「人を殺したいって思ったこと、ありますか?」

 なんてことのない調子で言ったつもりだったけど、碓氷遼一は言葉に詰まったみたいだった。

「ないよ」

 と、それだけだった。「なにその質問」、なんて戸惑った声もない。

「きみはあるの?」

 その反撃に、わたしはうまく応えられなかった。


493: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/19(日) 22:44:42.07 ID:EnAtfhS9o

 それからわたしは、どうでもいい会話をしながら、適当な文章をでっちあげた。
 何かをでっちあげるのは苦手じゃない。わたしの存在だって気持ちだってほとんどでっちあげのようなものなのだ。

 碓氷遼一はアドバイスらしいアドバイスをしてくれなかったけど、それが逆によかったのかもしれない。
 おかげで余計なプレッシャーもなく自由にやらせていただけた。

 わたしの書いた文章が小説じゃなかったことに、まひるは少し不満げだったが、それでも感謝はしてくれた。

 文章を書きながら、わたしは、お兄ちゃんが書いた詩のことを思い出した。

  “風船は がらんどうなので、
   軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
   針でつつけば ごらんのとおり”

 あの詩の風船は、まるで、人間のことのようだった。
 
"針でつつけば ごらんのとおり"……。
 
 わたしの頭をよぎったのは、ケイくんが図書館で見つけた新聞記事。
 刺殺……凶器と見られるナイフ……。そして、さっきの噂話。

 でも、この連想には根本的な破綻がある。
 
 あの詩があった世界では物騒な事件なんて起きていなかった。
 この世界にはあの詩は存在しない。
 
 だから、繋がりにもヒントにもなるはずがないのだ。
 
 でも、
 もしこの世界が、お兄ちゃんの願いを反映しているとしたら?

 その自問の答えを、わたしははっきり言葉にできずにいた。


496: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:48:31.59 ID:epIMuzcfo



 結局、部活が終わる頃には夕方になってしまっていた。
 どちらにしても、今はまひるを頼るしかないから、待っていなければいけなかったんだけど。

 そうして帰り道、わたしはケイくんとまひるのふたりに声をかけた。

「ねえ、まひる、悪いんだけど、今晩も……」

「うん。かまわないよ」

 まひるは本当に気にしない様子だった。

「それでね、ケイくん」

「ん?」

 ケイくんはなんだか気疲れした様子で、名前を呼んでも反応が鈍かった。

「悪いんだけど、今日は先にまひると帰っていてくれない?」

「……はあ?」

「お願い」


497: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:49:19.28 ID:epIMuzcfo

「……どうするつもりだ?」

「べつに、深く考えてるわけじゃないんだけどね」

 ちらりと、碓氷遼一の方を見る。
 彼は荷物をまとめて、立ち上がるところだった。

「気になることがあって」

 確証も何もない、ただの直感。
 そんなもののために、わたしは今行動を起こそうとしている。

「……」

 ケイくんは、静かにわたしを睨んだ。

「……なに?」

「なんでもない」

 まひるは、少し不思議そうな顔をしていた。

「いいの?」

「なにが?」とわたしは訊ねる。

「愛奈ちゃんがいいなら、いいんだけど……」

 わたしは二人の方を見て、頷いた。

 それから、部室を出ていった碓氷遼一の姿を追う。


498: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:50:12.95 ID:epIMuzcfo



 わたしの考えは、ひょっとしたら見当違いのものなのかもしれない。
 余計なものに気を取られているだけの。

 きっと、間違いだ。
 でも、もしそれが本当だったら、わたしは、それをケイくんに知られたくないと思った。

 自分で、たしかめたいと、そう思った。

 碓氷遼一は家への道のりを歩く。

 きっと、このまま帰るつもりなのだろう。

 昨日見たときは、あの人と一緒だった。
 あの人……名前はなんと言ったっけ?

 たしか、そう、生見……。 
 生見小夜とか、そんな名前だったっけ。

 子供の頃、顔を合わせた記憶がある。

 高校に入る頃には、たしか疎遠になっていたと思うけど……。

 こっちでは、少し状況が違うらしい。


499: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:50:55.47 ID:epIMuzcfo

 さて、とわたしは考える。碓氷遼一は、振り返らずに歩いていく。

 それは当然だ。

 尾行なんてされたら、普通ならすぐに気付く、と、そう思う人は安易だ。
 歩いているとき、人は普通、そんなに振り返ったりしない。
 慣れた道なら尚更だ。

 後ろから近付いて友達を驚かせようとして、なかなか気付かれなくて焦れたことのある人だって、少なくないだろう。

 後を追うことは、容易いとまでは言わないが、難しいことではない。

 そう自分に言い聞かせながらも、わたしの心臓は弾んでいた。
 
 追って、何があるというのだろう? その答えは、自分でも分からない。


500: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:51:50.04 ID:epIMuzcfo

 夕暮れ時の見慣れた道を歩きながら、
 わたしは何もかもぜんぶが夢みたいだと思った。

 空に架かる電線の影、隊をなして飛ぶ鳥の群れ、オレンジがかった寂しい街の夕暮れ。

 懐かしい気持ち。
 それは風景のせいだろうか。それとも夕焼けの切なさのせいだろうか。

 胸の奥に何かがつかえるような……苦しさ。

 わたしは、いま、ひとりぼっちで、死んだ人の背中を追っている。

 夕焼けの街の中を。
 徐々に伸びていく自分の影を見ながら。
 その濃さに戸惑いながら。

 どこかで間違えてしまった気がする。

 わたしは、何かを間違っている。

 いったい何を?

 碓氷遼一。
 お兄ちゃん。

 何を憎んで、何を求めていたのか。
 分からない。

 見えるのはいつも背中だけだ。
 どこまでいっても、わたしはもう彼に追いつけない。


501: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:52:58.31 ID:epIMuzcfo

 わたしがいらなかったのだろうか。
 何を憎んでいたのだろうか。

 分からない。

 遠く、前方を歩く、姿。
 それが奇妙に眩しく見えた。

 その瞬間、

「お兄ちゃん!」

 と声が響いた。

 遠くて、何を話しているのかは、わからない。

 でも、彼女が彼に飛びつくのは見えた。

 ランドセルを背負った少女。
 昨日出会った少女。

 茅木穂海。わたしの妹だったかもしれない子。
  
 遠目でも分かるくらいに、幸せそうに笑っていた。


502: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:53:36.27 ID:epIMuzcfo

 彼は彼女を抱き上げた。
 
 わたしは、自分の感覚を恥じた。

 何を心配していたのだろう、わたしは。
 あんなふうに、彼はあたたかに笑っている。

 その横顔が、わたしの立っている場所からでも見えた。

 碓氷遼一は、殺人者かもしれない。
 どうしてそんなことを思いついてしまったんだろう。

 あんなふうに笑う人が、人を殺すなんて。

 しばらく、彼らの姿を眺めていた。
 ふたりは何か言葉を交わしたあと、手を繋いで去っていく。わたしの方なんて、見向きもせずに。
 わたしの存在になんて、気付きもせずに。

 ああ、わたしは、あの景色のなかに、どうしていられなかったんだろう。
 わたしがいた世界では、あんなふうにふたりが手を繋いで歩くこともなくて。
 だから――。
 
 わたしは結局、どこまで行っても……。

 視線を外す。もう、帰ろう、と、そう思った。
 これ以上見ていてもつらいだけだ。わたしはいったい、この世界に何を期待していたんだろう。

 わからなくなって、俯く。自分の影のかたちだけが、やけにくっきりと疎ましい。


503: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:54:35.60 ID:epIMuzcfo


 ――不意に。
 
「お兄ちゃん!」

 と、また声が聞こえた。

 さっきと同じ、子供の声。
 でも、響きが違う。

 今度の声は、なんだか、さっきより切迫した、悲痛な――。

 思わず、道の先を振り返った。

 状況が、さっきとまったく違う。
 
 碓氷遼一は……? 倒れている。隣に、穂海がいる。膝をついて、彼を呼んでいる。
 誰かが、傍に立っている。手に、何かを持っている。あれは……。

 刃物……?



504: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:55:38.59 ID:epIMuzcfo

 刃物を持った「誰か」が、緩慢な動作でこちらを見る。
 灰色のパーカー、ジーンズ、深く被ったフードと前髪、それから距離のせいで、顔は見えない。

 若い男……だろうか。
 
「誰か」は、わたしの方を向いたまま、何かを迷うみたいに立ち尽くしていた。
 頭が、うまく働かない。景色の意味が掴めない。
 
 突然、わたしの後ろから、怒声のようなものが聞こえた。
「誰か」は、わたしの背後の方を見たのだろうか。そうして、なんだか場違いに落ち着いた様子で走り去っていく。
 
 ――観察してる場合じゃない。

 碓氷遼一。
 わたしの叔父。
 お兄ちゃん。

 刺されたの?

 駆け寄ろうとするのに、うまく足を動かせている感じがしない。それでもいつのまにか、わたしは彼の傍に立っていた。

 血が、アスファルトを濡らしている。
 
「愛奈」と、わたしを呼ぶ声に、そのときはじめて気付いた。
 顔をあげると、ケイくんが傍に立っていた。

「救急車、呼べ。携帯は使いものにならない。おまえなら公衆電話のある場所と場所の説明くらいできるだろ」

「……ケイくん、なんで」

「いいから呼べ。……いや、救急車でなくてもいい、ここらへんは民家が多い。誰か人を呼べ」

505: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/02/26(日) 21:56:10.70 ID:epIMuzcfo

「ケイくん……」

「いいから。あとはその子に付き添っていてやれ。とにかく誰か来るまでここにいろ。
 それから、誰かにその子とそいつを任せられそうなら、できたら身を隠せ。面倒になったら動きにくい」

「ケイくんは……?」

「今の奴を追う」

「……でも、刃物」

「おまえはここで待ってろ」

「ケイくん!」

「大丈夫だ」

 何の根拠もないくせに、ケイくんは平然とそう言った。
 どこか、怒っているみたいに見えた。

 本当にケイくんは行ってしまって、わたしは、穂海と、苦しげに息をするお兄ちゃんと、その場に取り残された。

「誰か」とわたしは声をあげた。泣きじゃくる穂海の耳にすら届かなかったのではないかと思うくらい、頼りない声だった。
 どうして……こんなふうになってしまうんだろう。
 
 それから、まぶたをギュッと閉じて、働かない頭を無理やり動かそうとする。

 ――救急車。 
 いま必要なのはそれだけだ。

 お兄ちゃん、ケイくん……。

 頭のなかでぐるぐると、言葉にすらならない何かが、渦を巻いていた。
 

508: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:09:04.17 ID:A88cUmTAo

◇[Munchausen]

 
 妙なことに巻き込まれて、随分経ったような気がしていたけれど、考えてみればまだ二日目の夜だった。
 
 言ってしまえば退屈な日常からの脱却だけが目的だったのに、並行世界やら殺人事件やら奇天烈なワードばかりが飛び出してくる。
 
 業報というならば、そうなのかもしれない。
 
 あさひの家には本当に彼女以外誰も帰ってきていなかった。
 僕とすみれは彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら休むことにした。
 
 しばらくすると、すみれは昼間買った僕の服を広げてタグを外しはじめる。

「明日はどれ着る?」と彼女はご機嫌な様子だった。

 暢気なものだと感心するが、この状況では彼女みたいな態度の方が正解なのかもしれない。

 あさひは僕たちのくだらないやりとりにいちいち頬を緩ませていた。


509: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:09:45.49 ID:A88cUmTAo

 そんなふうにしていると、つい色々なことを忘れそうになって、だから僕は人と話をするのがあまり好きじゃない。
 
 エネルギーというのは針のように集中させておくべきだ。
 その他一切を犠牲にしても達成するべき何か。そのために残しておくべきだ。
 
 何もかもに怒り、腹を立て、祈っていてもどうしようもない。
 果たすべきこと、守るべきことがあるなら、そのひとつのことだけをひたすらに思うべきだ。
 
 無闇に怒ったり悲しんだりするのは、エネルギーの浪費だ。
 有限の資源を散逸させていても仕方ない。

 見事に、散逸してしまっている。
 それが今の僕だ。何の気力も湧かない。


510: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:10:19.89 ID:A88cUmTAo

 二日目。
  
 そろそろ元の世界のことを思い出してしまう。
 軽い気持ちの逃避行だったが、さすがに一時の熱がさめると冷静に我が身を顧みずにはいられない。

 あちらでも同様に時間が経っているなら、そろそろ捜索願でも出されかねない。
 妙な騒ぎにでもなったら面倒だが……まあ、そのときは、「何も覚えてない」でやり過ごそう。

 すみれは僕に買わせた服を眺めて満足気に頷いている。
 僕の方は、たいした理由ではないけれど、彼女はどうしてこんなところに来てしまったんだろう。

 それもまた、どうでもいいことなのかもしれない。

 放置されたままになっているはずの彼女のバイクのことを思い出したりするのは不毛だ。

 僕らはその夜、余計なことはあんまり話さずに過ごした。

 あさひもすみれも、この世界の僕が死ぬかもしれないことなんてどうでもいいと思っているみたいに見えた。
 そして、僕は実際に、どうでもいいとも思っていた。
 
 ただ僕にはいつも、愛奈のことが気がかりだった。
 僕が死んでしまったら、いったい誰が彼女のために何かしてやれるというんだろう。

 そう思うのは思い上がりだ。自分でもそう分かっている。
 けれど……。


511: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:11:06.76 ID:A88cUmTAo

 結局のところ、僕は言い訳がましいだけの人間なのかもしれない。
 そう結論づけてしまうと、それ以上は考えずに済んだ。
 どんな言葉を並べたところで、言い訳にしか聞こえないからだ。

 あさひとすみれが何かを話している。きっと、生活にまつわることだろう。
 食事と睡眠と……。そういうことを遠くに感じてしまうのはきっと、現実逃避なのだろう。

「明日はどうしようね」と僕はふたりに声をかけてみた。
 
「どうしようって?」

「刺されるのは夕方だろう」

「ああ、そういう意味」

 それまで何をして過ごせばいいんだろう。僕たちにはやるべきことなんてひとつもないような気がする。

「そうだね」

 とすみれは頷き、あさひは考え込んだ。

「うちでオセロでもしてたら?」

「なんでオセロなんて」

「だって、暇をつぶせそうなのがオセロくらいだもの。それともテレビでも見てる?」

 映画のDVDなら何枚かあるよ、とあさひはなんでもない顔で言う。
 冗談かどうか、わかりにくい。


512: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:11:34.05 ID:A88cUmTAo


「あさひはどうするの」

 僕の質問に、彼女は困った顔をした。

「わたしは……碓氷のストーキング」

「……ああ」

 そういえば今日も、彼女は昼間から、碓氷遼一の姿を追っていたんだっけ。
 彼は生見小夜と一緒に歩いていた。

 その姿を、彼女は延々と追いかけていたのか。

 なるほど、そうなると、あさひと一緒に行動するのはよくないかもしれない。
 同じ顔をした人間が同じような場所にいたら面倒ごとになるのは目に見えている。

 そういうことなら、僕らは別行動をとるのがいいかもしれない。


513: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:12:04.53 ID:A88cUmTAo


「じゃあ、昼間は暇つぶしでもしていようか」

 と、その夜はそういう話でまとまったのだけれど、実際に時間を持て余すと何をしていいか分からなかった。

 どうやら僕には、余暇を使い切ることで不安や憂鬱を見ないふりをする傾向があるらしい。
 暇な時間が出来ると余計なことばかり考えてしまうのだ。

 あさひは早くに出掛けてしまって、その朝、僕とすみれはふたりで家の中に取り残された。
 鍵は玄関の植木鉢の下に入れておいてくれればいいから、と、月並みな隠し場所を教えられた後、
 僕らはモーニングコーヒーを飲みながらオセロに興じたけれど、すぐに飽きてしまった。

「変な話」

 とすみれは苛立たしげに言った。

「どこまでいってもわたしたち、楽しいことなんてできないのかもね」

 そうだね、と僕も頷いた。
 これは心のありようの問題なのかもしれない。

 傾向。

514: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:12:41.71 ID:A88cUmTAo

「ねえ遼一、あさひの話、信じた?」

「さあ?」

「どうでもよさそう」

「実際どうでもいい」

 考えるだけ無駄だ。
 やるべきことは決まってるんだから。

「遼一は、何考えてるかさっぱりわからないね」

「そうかもね」

 何も考えていないんだから当たり前だ。
 
「すみれは信じたの?」

「半信半疑。夢を見たのは本当かも」

「だったらどうでもいいだろう」

「どういうこと?」

「どっちにしても、あさひに協力するしか、今のところ出来ることもない」

 帰る手段をさがさなければ、とは思う。
 でも、それは、鞄の中にしまいこんだままの課題をしなければと思うような、そんな程度の気持ちだ。
 
 愛奈のことさえ、僕は投げ出してしまいたいのかもしれない。
 自分のことだってよく分からない。


515: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:13:11.22 ID:A88cUmTAo

 愛奈は僕を軽蔑するだろうか。
 それは少し嫌だという気がしたけれど、仕方ないという思いもある。
 
 もともと、無理筋だったんだ。

 僕は、いったいなんなんだろう。
 どうしてこんな場所にいるんだろう。

 いつだって、そんなことばかり考えてしまう。

 自分が何を望んでいたのかさえ、よく分からない。

 こんなときにも思い出すのは、不思議と愛奈のこと。
 
 それから小夜のことだ。
 
 僕はオセロの白石を置きながら考える。形勢は不利だ。
 いつだってそうだ。白いものは黒いものに塗りつぶされていく。
 それでも僕は石を置き続ける。でもどれだけ局地的に白い領地を取り戻せたところで、結局は黒く塗りつぶされている。


516: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/05(日) 22:13:44.93 ID:A88cUmTAo

 隅ばかりを取られているのだ。

 そういう傾向がある。
 何度ひっくり返したつもりになったって、大勢は決している。
 それでも石を置ける限りは石を置き続けるしかない。

 終わりない後退戦。

「遼一、弱いね」

 呆れたようにすみれは言う。

 そうだね、とまた僕は頷く。

「僕もそう思ってたところだ」

 結局、あさひが一旦家に戻ってきた昼過ぎまで、僕らはコーヒーを飲んで過ごした。
 せっかくの新しい服だったけれど、すみれに選んでもらったものだったけれど、
 だからといって出掛けたくなるほど、僕は殊勝な性格ではないようだ。


519: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:11:20.70 ID:zo+DbQl8o



 間違えたのはおそらく僕だ。

 すみれは何もしなかったし、あさひだってじっと耐えていてた。
 我慢できなかったのは僕だけだ。

 自分自身に嫌気がさす。

 本当に嫌気がさす。

 そういうとき、僕は自分なんか死んじまえばいいんだと思う。

 跡形もなく消えてなくなってしまえばいいんだ。おまえなんていないほうがマシだった。
 どこにもおまえの居場所なんてないんだ。誰もおまえを必要となんてしていない。
 おまえの無能が人に迷惑をかける。おまえの存在が人を不愉快にさせる。

 なによりも誰よりも僕自身が――僕に苛ついている。


520: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:11:46.49 ID:zo+DbQl8o

 
 あさひは午後三時頃に一度自宅へと戻ってきて、僕とすみれのふたりと合流した。

 それから碓氷遼一の家へと向かった。遼一は昨日と同じような時間に、昨日と同じ道を歩いていた。
 
 僕たちは一定の距離をとって碓氷遼一の背後を歩いていた。彼が家につくまでずっとだ。

 彼が家についてしまうと、日が沈んで空が暗くなるまで、前と同じ公園から様子をうかがうしかなかった。
 問題が起きたのは、すみれが飲み物を買いにいったときだった。
 
 僕たちは三人とも、少しのあいだ、家から目を離していた。
 ずっと眺めていたら、通りすがりの人間に怪しまれる。監視するにも、うまくごまかしながらやらなければいけない。
 当然、素人の拙い小細工など、素人に看破されてもおかしくない。

「こんにちは」

 と、僕らはあっさり背後を取られた。

「俺に何か用事?」

 振り向いてはいけない、ととっさに思った。顔を見られてはいけない。

 それは僕の声だった。 
 どう聞いても僕自身の声だ。

 僕とあさひは二人で固まった。


521: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:12:13.96 ID:zo+DbQl8o

「……ああ、碓氷くん」

 と、あさひは無理がある冷静さで反応した。

「こんにちは。家、このあたりなの?」

「それは無理があるな」と碓氷遼一は言う。

「ごまかすのはなしにしよう。いったいどういうつもりなんだ?」

「……」

「正直言ってあんまり愉快じゃないよ、篠目」

「ばれちゃった」

 あーあ、というふうに、あさひは作り笑いをした。
 僕は口を挟まずに、振り向かずにいる。

「それで、篠目、ここ数日、いったいどうしたっていうんだ?」


522: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:12:55.45 ID:zo+DbQl8o

 碓氷遼一の質問に、あさひは黙り込んだ。
 当然と言えば当然だ。

 夢であなたが刺されていたので、なんて、そんなことを言ってどうなる?

 篠目は何も言わずに苦笑する。

「言えないのか」

「ちょっとね」

「正直さ、篠目……こう言い方はしたくないんだけど」

 彼は吐き捨てるように言った。

「気味が悪いんだよ」

 その瞬間、頭がカッとなった。

「悪いんだけど、俺はおまえがあんまり好きじゃないし、だから周囲をうろつかれると迷惑なんだ」

 僕は顔を上げない。振り返らない。

「わかった」

 と、少しの沈黙を挟んで、あさひはそう言った。


523: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:13:23.36 ID:zo+DbQl8o

 悪いね、と碓氷遼一は言った。 
 悪いなんてこれっぽっちも思っていない声だった。

 それが僕にはわかる。

 ――だから。
 
 背を向けて立ち去ろうとした碓氷遼一の肩を掴み、強引に振り向かせてその頬に拳を突き出した。

 頭に血が昇っているのが自分でも分かった。

 そうして僕は、気付けば何度もこう繰り返していた。

 おまえは僕じゃない。おまえが僕であってたまるものか。
 そんなこと認められない。おまえなんか僕じゃない。
 僕はおまえを認めない。

 碓氷遼一は、僕の顔を見て呆然とした様子になった。
 それから立ち上がって、まとまらない考えを振り切ろうとするみたいに、そのまま歩み去っていく。

 僕は彼の背中を追いかけようとする。足を動かして、でも覚束ない。彼の背中に追いつけない。
 玄関の扉。碓氷遼一が吸い込まれていく。……違う。そうじゃない。そこはおまえの居場所なんかじゃない。 
 おまえなんかがいていい場所じゃない。

 玄関の扉の前で膝をつく。
 
 耳に入ってくる音は自分が吐き出す呪詛だけで埋め尽くされていた。頭のなかだって、今起きたことでいっぱいだった。
 あんな姿をしている人間は、あんな言葉を吐く人間は僕じゃない。


524: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:13:56.59 ID:zo+DbQl8o


 落ち着いて、と誰かが何度も繰り返しているのが聞こえた。
 落ち着いて、遼一。

 僕は呼吸をする。脳に酸素が行き渡っていない感じがした。それを自覚できたら、あとは深呼吸をすればよかった。
 吸って吐いてを繰り返しているうちに、届いていた声の主がわかるようになる。すぐそばのあさひだった。

 僕はなぜか泣いていた。
 何かが耐えきれなくなってしまった。

 自分がどうして泣いているのかもわからないのに悲しくて仕方ない。
 たったあれだけのやりとりが、どうして僕をこんなに打ちのめしたのか、自分でもわからない。

「大丈夫だよ、ねえ、遼一。ほら、行こう?」

 あさひはそう言って僕の肩をそっと撫でた。

 僕は、立ち上がろうとして、
 最初はただの違和感で、
 次にやってきたのが熱だった。

 僕はうしろを振り返って、
 そこに誰かが立っていた。

「……え?」


525: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:14:41.85 ID:zo+DbQl8o

 あさひのその声が、奇妙に遠く聞こえた。
 自分の背中を見る。何かが、突き立てられている。

 ――刺さっている。と、そう思った途端、急に血の気が引いた。
 意識が酩酊するようにぐらつく。

「あ……」
 
 何かに気付いたような、あさひの声。

 いや、僕も、その瞬間、気付いた。

 あさひが見ていた、碓氷遼一が自宅で刺される夢。 
 それは違ったんじゃないか。

 この世界の碓氷遼一ではなく、この僕が刺される景色を、彼女は夢に見たのではないか、と。
 そんな符号に、頭が回る。

 ナイフを握る誰かを、見る。
 見覚えが――ない? ある?
 
 ――ある。

 これは……誰だ。


526: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/12(日) 21:15:14.47 ID:zo+DbQl8o

 ――おまえさ、人生楽しくねえだろ。

 見覚えが、ある。クラスメイトだった。名前は覚えていなかったけれど、あさひの話を聞いているうちに思い出せた。
 僕がこの世界に来る前、放課後の教室で、生見小夜とふたりで話をしていた男子。

 沢村翔太。

 この世界では、篠目あさひが、連続殺人の被害者のひとりとして数えていた人物。
 たしか、死体は見つかっていなかった、と言っていた。

 死んでいなかった?
 でも、どうして……。
 
 彼は、僕の顔を見て、不愉快そうに口元を歪ませて、一言、

「死ね」

 と、簡単そうにそう言った。

 一瞬のうちに、ぐるぐるといろんな思考がまわったけれど、
 痛みのせいで、すぐに途切れた。獣みたいなうめき声が自分の口から漏れるのがわかった。
  
 後ろから、足音が遠ざかっていく音がする。
 
 僕は、痛みにやられながら、自分の声を聞いた。
 それはたぶん、頭の中だけで響いていた。

 おまえは、ほっとするべきだよ、と。
 ようやく死ねるかもしれない。

 よかったな、と。


529: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:48:13.22 ID:oBysWUhXo



 生きていることが嫌になったのがいつのことだったのか、僕はよく覚えていない。
 
 取り立てて理由があったわけでもないと思う。
 両親は健在、肉体は健康、金に困っているわけでもなければ、人生観を揺るがすような大きな出来事があったわけでもない。

 ただ、子供の頃からずっと思っていたことがあった。
 
 人はいつか死ぬ。
 どうせ死ぬ。

 何を大切にしても、何を守ろうとしても、何を欲しがっても、結局は全部なくなってしまう。
 
 それ自体は、今にして思えばたいしたことではないのかもしれない。

 その事実以上に僕を打ちのめしたのは、誰もその気持ちに共感してくれないことだった。

 僕の不安、僕の絶望、僕の恐怖、それを誰もわかってくれなかった。わかろうとしてくれなかった。
 
 そんなことを考えるのは幼稚でくだらないとでもいうみたいに。
 はっきりとした答えなんて、誰も僕に教えてくれなかった。



530: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:48:40.73 ID:oBysWUhXo

 何を得ても、結局はすべて失われてしまう。
 そう考えた途端、僕の意識はもはや「今ここ」ではなく、無時間的無空間的な「どこか遠く」に運ばれてしまう。
 
 目の前に起きる出来事のひとつひとつに反応し、感情を揺さぶられることが馬鹿らしいことに思えてしまう。
 結局のところ、僕の身に起きることのすべては、そう遠くない未来になかったことになってしまうのだ。

 誰かの記憶に残ったところでその誰かもいつかは死ぬ。
 僕らが遠い昔の人間に思いを馳せるときのように、あらゆる人間の感情は意味のないものとして消え去ってしまう。

 現に、過去に生きたなんでもない人たちのことなんて、僕はなにひとつわからない。
 
 どうせなくなってしまうなら、なんとなく生きるというのもひとつの手立てだろう。
 でも、どうせなくなってしまうなら、何もせずに死んでしまうというのも、ひとつの手立てなのではないか。

 苦しむくらいなら、悲しい気持ちになるくらいなら、最初から全部ほしがらなくてもいいんじゃないか。

 そうやってただ消えていってしまえれば、それはもう、ひとつの正解なんじゃないか。

 それを子供っぽい理屈だと、誰かは笑うかもしれない。
 その誰かの言葉だって、死んでしまえば何の関係もないものだ。

 面倒だと思うことも、嫌だと思うことも、全部やめてしまって。
 ただ誰からも忘れ去られたように消えてしまえれば、と。

 僕はそんなことを思っていた。


531: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:49:09.82 ID:oBysWUhXo




 次に目をさましたとき、僕は半分安心して、半分絶望していた。

 すぐ傍にはあさひとすみれがいて、僕はあさひのベッドに横になっていた。

 すみれは泣きはらしたような真っ赤な目で僕を見て、

「死に損なったね」

 と言った。
 ああそうか。死に損なったんだ。そう思った。

 こういうときの僕は諦めがいい。
 今はまだそのときじゃないんだ。そう思えた。

「刺されたような気がする」

「うん。刺されたよ。でも、浅かったみたい」

「浅かった」

「病院にはいけなかったから、わたしとあさひがなんとかしたよ」

「悪かった」

「うん。でも不思議」

「なにが?」

「死なないでって思っちゃった」

 思わず笑うと、背中がずきりと痛んだ。よく生きていたものだ。


532: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:50:05.81 ID:oBysWUhXo

「刺した奴は?」

「逃げた」

「……ごめんなさい」

 そう声をあげたのは、あさひだった。

「……なにが」

「気付けるはずだった。刺されるのが、遼一かもって」

 彼女は俯いて、こちらを見ようともしない。

 そう考えるのはわからないでもない。
 でも、違う。

「気付けるわけないよ」と僕は言った。

「わかるわけないんだ。そういうものなんだよ」

 慰めのつもりでさえなかった。あさひは納得しかねるように首を横に振る。
 

533: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:50:38.70 ID:oBysWUhXo

 僕は、体を起こす。そうすることができた。
 痛みというのは不思議なものだ。
 どれだけ頭で考えたところで、自分は肉の塊でしかないと、嫌でも実感させられる。

「沢村翔太だった」

 と僕は言った。
 すみれはピンと来ない顔をした。反対に、あさひはすぐに何のことだか分かったみたいだった。

「……沢村くん?」

「間違いないと思う。顔を見た」

「どうして沢村くんのこと……」

「あっちで、知り合いだった」

「でも、沢村くんは」

「ね、何の話してるの?」

 言っている意味がわからない、というふうに、すみれが苛立たしげな顔をする。
 僕は一度話を整理することにした。



534: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:52:16.14 ID:oBysWUhXo


「僕とすみれが元いた世界に、沢村翔太っていう名前のクラスメイトがいた。
 僕を刺したのは、そいつだ。顔を見た」

「……沢村翔太、ね。なるほど。なんでかはわからないけど、そいつが通り魔なのね」

「でも」とあさひが口を挟んだ。

「沢村くんは、もう死んでる」

「え?」

「七月の始め頃、わたしは沢村くんが刺し殺される夢を見た。それから彼は行方不明になってる」

「……あれ、でも、じゃあ、どういうこと?」

「死体は見つかってない」と僕は言った。

「あさひが夢で見たのは、刺されるところまでだ。死んでなかったのかもしれない」

 現に、僕だってあさひの予知夢の通り、「碓氷遼一の自宅で」「夕方」「誰かに刺された」。
 そして生きている。

「……だったら、その沢村って奴を捕まえればいいのかな」

「でも、おかしいよ」
 

535: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/03/26(日) 21:52:46.30 ID:oBysWUhXo

 あさひは戸惑ったみたいに声をあげた。

「沢村くんが犯人だったら、最初に沢村くんを刺したのは誰なの?」

「……それは、わからないけど、でも、たぶん、考える必要はない」

「どうして?」

「どっちにしても、僕らが連続通り魔犯をどうにかするには、現に僕を刺した沢村を捕まえるのが手っ取り早い」

「そう言われれば、そうだけど」

 刺されたっていうのに、随分冷静だな、と自分で思う。
 けっこうショックを受けている気もするけど、それもどこか遠い。

「問題が、ひとつだけあるかな」

 考え込むような沈黙のあとに、あさひがそう口を開いた。

「沢村くんは、死んでないにせよ、行方がわからないってこと」

「……それは、困ったな」

「少し休もうよ」とすみれが言った。

「あさひだって、今朝は夢を見なかったんでしょ?」

「ん……まあ。誰かが刺されるような夢は、見なかったけど」

「だったら、ちょっと休憩にしよ? すぐにどうにかできるような問題でもないよ、きっと」

 ね、と言って、すみれは僕の頭を枕の方に押しやった。

「……休憩」

 僕にはなんだか、それが珍しい言葉のように思えた。


539: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:09:44.53 ID:8CFPILJCo


 
 沢村翔太の死体が発見されたというニュースが流れたのは、その日の夕方のことだった。

 僕たちはそのとき、あさひの家でゆっくりと"休憩"をしていた。

 沢村翔太の死体は僕が通っていた高校の校門で発見された。
 当然のように刃物で刺された形跡があったらしいが、ひとつ問題があった。

 それは、発見された段階から、既に死後かなりの時間が経っていた、という点だ。
 少なくとも今日や昨日殺されたわけではなさそうだという。

 夕方のニュースでは、それ以上詳しいことは教えてくれなかった。


540: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:10:17.22 ID:8CFPILJCo

"休憩"はそのように打ち破られ、僕たちは起きたことと起きなかったことについて検討することになった。

「遼一を刺したのは、間違いなく沢村翔太だったの?」

「間違いなく、と言われると、自信はないけれど、おそらく」

 僕達の前にはあさひの家のダイニングテーブルが広がっている。
 そのうえには三人分のコーヒー。

 景色はどこまでも静物だ。
 現実感は既になくなっていた。人の生き死にも、自分が刺されたという事実も、
 今の僕にはなんだか他人事のように思えてしまう。

 ときどきそんな感覚に支配されている。

 僕の視界を僕はただ眺めているだけで、そこに僕はなにひとつ関わっていないような錯覚。


541: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:10:42.86 ID:8CFPILJCo


 僕は沢村翔太に刺された。
 
 そう思う。
 
 けれど、絶対の自信はない。
 状況が状況だったし、今となっては記憶さえも曖昧だ。漠然とした印象でしかない。
 
 あのとき僕は、自分に向けられた悪意のようなものを、ただ沢村翔太に重ねてしまっていただけなのかもしれない。

 けれど……少なくとも、沢村翔太だった、と僕は思う。

「でも、沢村翔太は死んでいた」

 少なくとも、沢村翔太が刺されたのが昨日今日のことでないというのなら、僕を昨日刺したのは彼ではない、と言える。
 普通の状況だったなら。

「疑問がふたつあるね」

 すみれがそう口を開いた。

「遼一を刺したのが沢村翔太じゃなかったとしたら、遼一を刺したのは誰だったのか。
 もうひとつは、沢村翔太が殺されたのが昨日より前だったんだとしたら、なぜいまさら死体を運んだのか?」

「運んだ?」とあさひが疑問を口にする。彼女の言葉にすみれは頷いた。

「校門なんて目立つところにわざわざ置いたってことは、見つけてほしかったってことでしょう?」

 夏休み中とはいえ、学校には教職員も部活動をする生徒たちも出入りしている。
 そこに付け加えるなら、どうして「誰かに見つかるような危険を冒してまで」校門前に死体を置き去りにしたのか。


542: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:11:09.28 ID:8CFPILJCo

「これを全部、納得のいくように、矛盾ないように説明するのは、意外と簡単だよね」

 すみれの言葉を聞いて、彼女が僕と同じ可能性に思い当たっていたことがわかった。

 たしかに説明するのは簡単だった。新たな疑問こそいくつも出てくるものの、矛盾をなくすのは簡単だ。

「遼一を刺した沢村翔太と、発見された死体である沢村翔太は別の人間」

 その言葉に、僕は頷く。あさひだけが、なんだかピンとこないような顔をしていた。

「えっと、つまり、どういうこと?」

 あさひは体験していない。だからとっさには思い浮かばないのだろう。
 けれど僕たちは、既に同じ人間がふたり以上存在できる状況を知っている。

 僕たち自身だってそうなのだ。

「どちらかはわからないけど、どちらかが、"別の世界"から来た沢村翔太だ、ってこと」

 特に驚いた顔もせず、ああ、なるほど、とあさひは頷いた。

「沢村翔太は僕らと同じような方法で、別の世界からこの世界へとやってきた」

「そして、どちらかがどちらかを殺した。状況を整理すると、どっちがどっちを刺したかも簡単かもしれないね」

「というと?」

「どうして沢村翔太の死体を、誰かに発見される危険もいとわずに校門まで運んだのか。
 それは死体を発見させることで、何を誇示するためだったのかな?」

「誇示」

 たしかに、わざわざ人目のつくところに死体を運んだということは、発見させることで何かを誇示したかったからかもしれない。
 誰に対して?

「これは単純な推測だけど、沢村翔太の死体を、しかも死後かなりの時間が経った刺殺体を見つけると、どうなる?」

「どうなる、って」

「……沢村くんは、容疑者ではなくなる」

 あさひの言葉に、すみれが頷いた。
 


543: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:11:48.25 ID:8CFPILJCo

「これも単純な推測で証拠は何もないけど、あさひの夢の話と総合すると、ひとつの仮説が生まれる。
 あさひの夢では、最初に刺されたのは誰だっけ?」

「……沢村くん」

「そうだったよね。最初に殺されたのは、沢村翔太。死体は見つかってなかった。それが今になって発見された」

 僕たちはそれを、ふたつの可能性で考えていた。
 まず、沢村翔太はあさひが夢で見た通りに殺されていて、死体が発見されていないため行方不明のままだった可能性。
 もうひとつは、あさひの夢がただの夢でしかなく、沢村翔太の失踪は立て続きに起きた殺人とは何の関わりもないという可能性。

「沢村翔太は、沢村翔太を容疑者から外す為に沢村翔太の死体を今になって置き去りにした」

 すみれのその言葉は、荒唐無稽なようで筋が通っている。
 誰も死者を疑わない。

「だとしたら、今になってその必要が出てきたってことだよね。どうしてかな?」

 僕はその言葉で、誇示、と言った彼女の言葉の本当の意味を理解できた。

「碓氷遼一を殺しきれなかったから」

 僕は思い出す。
 あのとき、僕の傍にはあさひがいた。
 けれどあさひには、沢村翔太の顔がよく見えなかったはずだ。僕の体が間に挟まっていたし、彼も帽子を目深に被る程度の対策はしていた。
 
 だからあさひには、彼の顔は見えなかった。
 けれど、刺された僕は、彼と目が合った。

「単純に考えて、これは遼一に対するアピールだよね」

 すみれの言葉に、けれどあさひが首を傾げる。



544: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:12:18.78 ID:8CFPILJCo

「でも、それっておかしくない? 遼一たちなら、沢村くんがふたりいる可能性にすぐ思い当たるでしょう?」

「沢村翔太が、刺した相手が"こっちの遼一"じゃないって気付いてればね」

 ああ、そうか。

 沢村が、自分が刺したのが"こっち"の碓氷遼一だと思っていたら、その碓氷遼一に顔を見られたと思ったのだとしたら、
 死体を見せつけることには意味がある。少なくとも告発されることはなくなる。

 でも、そうかもしれない。

 あさひの話によれば、殺人の大半は人混みの中や、日没前に起きた。
 まるで目撃されることを恐れていないみたいに。

 それもそう考えると自然なことかもしれない。

 現に犯人は発覚を恐れていなかったのだ。
 死体を置き去りにするところを見つかったところで、痛くも痒くもなかったことだろう。

 沢村翔太は死んでいるからだ。
 現場から沢村翔太の痕跡が発見されたところで怖くもない。
 
 そのとき沢村翔太は既に死んでいるからだ。

「顔を見られて、沢村翔太が犯人だと誰かに気付かれたら、死体を見せつけてやればいいわけか」

 なるほど。
 そう考えると、こちらに来たとき僕やすみれが考えたことなんて、ずいぶん控えめだったかもしれない。
 

545: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/14(金) 23:13:33.75 ID:8CFPILJCo

「疑問がひとつだけある」

 すみれはそう話を続けた。
 ひとつだけで済むだろうか、と僕は思ったけれど、口は挟まない。

「どうして沢村翔太は、遼一を殺しきらなかったのか、ってこと」

「……そばに、わたしがいたからじゃない?」

 あさひの言葉に、すみれが首を横に振る。

「だったら最初から、ひとりでいるところを狙ったはず」

「……たしかに」

 もし顔を見られても、死体を出せば追われずにすむ。だったらその場で逃げなくても、殺しきってしまえばよかったはずだ。
 そういう自負があったからこそ、彼は隣に人間がいる場面で僕を刺したのではないのだろうか。

「そもそもの問題なんだけど」とあさひが口を開いた。

「どうして沢村くんは人を殺したりするの?」

「そんなの考えたってわかんないよ」

 すみれの答えはあっさりしていた。

「人が人を殺す理由なんてわかるわけないでしょ」

 ああ、でも、と彼女は続ける。

「自分を殺す理由なら、なんとなくわかるような気がするけどね」


548: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 19:58:22.56 ID:qSeWuhbBo



 自分を殺すという言葉には二種類の意味がある。
 一方は精神的な、一方は肉体的な意味を孕んでいる。

 誰でも自分を"押し殺す"ことがある。
 滅私奉公という言葉の通り、自分を"殺して"公に従うことは美徳に数えられる場合さえある。
 
 また、"自殺"する者もある。
 自分が嫌になったとき、自分自身でいることに安らげないとき、自分を許せないとき。
 あるいは、自分自身を諦めたとき、何もかもに疲れ果てたとき、深い悲しみや絶望に囚われたとき。
 人は自らの手で自らを縊る。

 そういうことを考えると、生きるということは……としたり顔で何かを語りたくなる。
 そのどれについてもよく知らないくせに、それらしいことを嘯きたくなる。

 
 沢村が自分を殺したとしたら、それは精神的な意味でも肉体的な意味でもないような気がした。
 その意味が、今の僕にはわかるような気がする。


549: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 19:58:49.31 ID:qSeWuhbBo

 生きるというのは岐路の連続だと、誰かがそれこそしたり顔で言っていた。
 僕たちは刻一刻と迫りくるいくつもの可能性の中から常にひとつを選び取り続ける。

 不断の選択。
 自分は何も決断していないと思っている人間がいるとしても関係ない。
 彼はただ一秒ごとに決断しないということを決断し続けているだけに過ぎない。

 目の前に似たような扉が三つある。作りも同じように見える。たどり着く場所がどこかは分からない。
 そのどれかを開いて身をくぐらせてしまえば、もう後戻りはできない。
 選ばなかった扉は二度と開くことはできない。

 僕たちはその扉の向こうにあったはずの景色を決して見ることはできない。

 けれどもし、それを覗き見ることができたら。
 その扉の向こうに、自分が選んだものより上等な景色が広がっていたとしたら。
 そこを自分によく似た誰かが歩いているとしたら。

 その自分を、その扉をくぐったかもしれない自分を……。
 その扉を選ばなかった自分は……。

 その景色を眺めている自分は……。


550: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 19:59:39.62 ID:qSeWuhbBo



 両親が悪い親だとは思わない。
 でも、問題のない親だとも思わない。

 どこの家だって似たようなものだ。何かしらの点で、家庭は完璧ではない。
 完璧な人間がいないのだから当たり前のことだ。
 
 今現在の自分の性格や精神の在り方を家庭環境や周囲のせいにしていいのは子供の内だけだ。

 そもそも人間の在りようにおいて、何かひとつの原因にすべて由来が帰結してしまうほど単純なものなんてひとつもない。
 すべては複雑に、曖昧に、重なり合い、結びつき、混じり合っている。

 それでもなお生きようとするなら、よりよく生きようとするなら、何かのせいにしていても始まらない。
 自分のせいにしても始まらない。

 それは僕のせいではないし、誰かのせいでもない。
 それでも僕はそれを受け入れ、消化し、あるいは自分なりに削り取ることで生きようとするしかない。

 それでも僕は、ふとした瞬間に、ああ、あれが原因だったのかもしれないな、とぼんやり思う。
 何かのせいにする、というような鋭い気持ちではなく、ただ、ガラス越しに魚を眺めるようにぼんやりと。

 あるいは、祖父のせいであったのかもしれない、と。


551: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:00:16.61 ID:qSeWuhbBo



 祖父は不潔な生き物だった。
 
 ろくに体を洗わないものだから肌はいつも浅黒く汚れ、酒を飲むと赤みがかっておそろしく奇怪に思えた。
 背中を曲げ、足を引きずって歩く彼は、服もほとんど洗わずに毎日を過ごした。
 味の濃いものを好んで食べるせいで血圧が高く、目はいつも赤く充血していた。

 朝新聞配達をしている以外では、家にいても何もしていることはない。
 ただ畑を耕して、ぼろぼろの自転車で出かけて……彼の日々はそんなものだった。

 父とは何か必要がないかぎり会話しようとせず、ただ四六時中家で顔を突き合わせている母だけが祖父の相手をしていた。
 僕とは、年に一度か二度しか会話しなかった。

 母にとって祖父は舅だった。
 血縁はなく、だから私は他人なのだ、と母はときどき漏らしていたことがあった。
 
 祖父はよく嘘をついた。それもつまらない嘘を。
 都合の悪い話になると逃げる癖があった。
 
 畑仕事の後に手を洗おうとしないので、彼が食卓に現れるとテーブルがひどく汚れた。
 薄黒い手で子供に触れるのを母はひどく嫌い、祖父を罵ったものだった。
 
 彼が歩くとそこかしこが汚れた。それを母が咎めると、祖父は意地の悪いようににんまりと笑い、何も言わずに歩いていくのだ。


552: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:01:23.15 ID:qSeWuhbBo

 もう頭がおかしくなりそう。わたしが我慢しなくちゃいけないの? どうしても頭に来るの。
 そう言って母が父に言った。あなたから言ってください。あなたのお父さんでしょう。どうしてあなたは何も言わないの。

 父は答えない。

 ねえ。と母。

 父は答えずにテレビを見ている。

 お父さん? と母は父を呼ぶ。

 不意に父は母を振り返り、笑った。

 今の見たか、と父は言う。

 何を、と母。

 今の車のCM。新型だ。

 話を聞いて。

 聞いてるよ。

 だったらどうして返事をしないの?

 ジジイのことだろう。俺にどうしろって言うんだ。

 あなたのお父さんでしょう? わたしのお父さんじゃない。

 ……。

 都合が悪くなると聞こえないふりをするのね。本当に親子って似てくるのね。

 なに?

 そっくりって言ったのよ。


553: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:01:51.29 ID:qSeWuhbBo

 それは僕にとっては呪いに近い言葉だった。
 
 僕は祖父を嫌っていた。蛇蝎のごとく、と言ってもいい。
 蝿や蛾を厭うように、祖父のことを避けていた。

 汚いから、なんだか、気持ち悪いから。
 
 姉は、そんな僕の感情を、母による洗脳だ、と言った。

 子供にとって、親は絶対みたいなところがあるから、わたしたちはお母さんが嫌ってたから、おじいちゃんが嫌いだったけど……。
 今にして思えば、おかしいのはお母さんの方だったのかもしれない。

 なるほど。

 でもそれは……一緒に暮らさなくなってから姉が言ったことで……一緒に暮らさなくなったから言えることだ。

 ましてや、愛奈のことでさんざん喧嘩した母を、姉は煩わしく思っているのだろうから。
 どこでもいいから母の間違っているところを探して、それを理由に母を間違っていると思いたいのだろう。

 何もかもが複雑で、誰が悪いというのも簡単じゃない。


554: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:02:22.53 ID:qSeWuhbBo

 父は祖父について何も言わなかった。ときどき、本当にときどき怒鳴りつけるように叱ることはあったけれど、それだけだ。
 よくよく考えてみれば、父は家のことを、ほとんどすべて母に任せきりだったかもしれない。

 僕や姉や祖父のことも。
 ひょっとしたら愛奈のことも。

 母はよく我慢していたのだと思う。
 それでも一度歯止めがきかなくなってしまうと、ほとんど狂ったように祖父を責めた。

 幼稚園児のようなことだ。

 食事の前には手を洗え、風呂に入る前には体を流せ、服は毎日取り替えろ、嘘をつくな。
 
 父がいないところでは、ただ祖父はニンマリと笑うだけだ。

 父がいるところでは、すぐに部屋に戻っていなくなってしまう。

 全員が揃うのは、いつも夕食のときだけで、
 だから夕食の時間になると、よく母が祖父を怒鳴りつけたものだった。
 
 手を洗ってください。

 洗った。

 汚いでしょう。

 汚くない。

 服だって何日取り替えてないんですか?

 替えたばかりだ。

 父は黙っている。
 母はこらえようとする。


555: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:02:49.48 ID:qSeWuhbBo

 やがてどちらもが怒鳴り声をあげはじめる。
 父もそれに混ざる。

 僕と姉はただ黙々と食事をとっている。

 夕食というのは基本的に苦痛な時間だった。
 食事を食べ終えるまでそこから離れてはいけないという、一種の地獄のようだった。

 このような経験によって得られた(と、僕が思っている)性質がふたつある。

 まずは、食事を食べるのが早いこと。
 これは学校でよく驚かれたものだった。

 もうひとつは、近くで大きな声を張り上げられても、まったく反応しないこと。
 名前を呼ばれても、それに気付かないこと。
 
 前者はともかく、後者は少し問題だった。
 おかげで、とは言いたくないが、今にして思うと、僕があんまり人と仲良くなれなかったのも、
 彼らが話している内容を、本当の意味で聞いてはいなかったからかもしれない。


556: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:03:17.79 ID:qSeWuhbBo


 父は祖父にそっくりで、親子は似てくるものだという。
 母は祖父と血のつながりのない人間だ。

 では僕は?
 姉は?

 姉は女性だから、また違うかもしれない。
 でも、僕は?
 
 父が祖父に似ていくように、僕も父に似ていくのだろうか。
 だとしたらそれは、祖父の三番目の模造にすぎないのだろうか。

 僕の生は。

 だとすれば……。

 僕もまた、やがてはあんなふうに、汚く、不潔な生き物になり、
 子や孫から毒虫のように嫌われて、妻を亡くし、日がな一日退屈に過ごし、
 誰かに嫌がらせをしては、あんなふうにニンマリと笑うようになるのか、と。

 だとするともう、生は一種の絶望でしかないように思えた。

 僕はもう、ただ、いつかは、あんなふうに嫌われて、あんなふうに生きるだけの生き物なのだと。

 僕は不潔な生き物の卵なのだと、そう思った。



557: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:03:52.78 ID:qSeWuhbBo




 
 愛奈は僕ほどではなかったけれど、彼女が生まれた頃も祖父はまだ生きていたので、その影響はたっぷり受けていた。

 まず、名前を読んだり話しかけたりしても、なかなか返事をしないこと。
 次に、誰かが近くで口論や喧嘩をしていたりすると、咳をすること。

 口論が止まらなければ止まるまでいっそう烈しく、愛奈の咳は続く。

「ねえ、お兄ちゃん。パパに会いたいな」

 何年か前、愛奈はそう言ったものだった。
 
「パパがどんな人だったか、覚えてる?」

「うん。あのね、眼鏡かけててね、茶髪でね、背はそんなに高くなくて……」

 愛奈の思い出は、二歳か三歳頃の記憶にしては、正確だった。
 そういうものなのかもしれない。

「でも、死んじゃったの」

 そういうことに、彼女の中ではなっていたらしい。
 実際には死んでいなかった。ただ離婚しただけのことだ。
 そして今は、別の女の人と結婚して、普通に子供を作っているという。

 たぶんうまくやっているんだろう。


558: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/04/28(金) 20:04:19.65 ID:qSeWuhbBo

「ママはどうしてあいなのとこにいないの?」

「うん……」

「あいなのこと……」

 嫌いなの、と、訊こうとしたんだろうな、と思って、胸が詰まるような思いがした。

 僕は愛奈のことを抱き上げた。
 そうだ、そのとき僕たちは、見晴らしのいい丘の上の公園で、ベンチに腰掛けて、一緒にジュースを飲んでいたんだ。
 あの初夏の日暮れ。
 
「愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ」

 僕はそう言った。きっと、愛奈は僕の言葉の意味の、半分だって理解しちゃいなかっただろう。

「一緒にいるから大丈夫だよ」

 それでも彼女は笑ってくれた。
 
 誰も、望んで生まれてきたわけじゃない。勝手に作って、勝手に産んだんだ。
 勝手に生んでおいて、後は何が起きても知らないから好きに生きろなんて、無責任だ。
 生んでやっただけで感謝しろとか、育ててやった恩がどうとか、親には感謝して当たり前だとか、そういうのは気持ち悪い。

 勝手に産んだんだ。勝手に産んだんだから、親にはその責任ってものがある。
 それを親が果たさないなら……誰かが代わりにやらなきゃいけない。
 それでも子供が親や大人を恨んだら、黙ってその言葉を引き受けなきゃいけない。

 誰もやらないなら、僕がやる。

 だから僕は……でも、今の僕は……。

 何を思っているのかさえ、自分ではわからない。


562: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:48:58.54 ID:070JmTtio


∵[Pollyanna]S/a


 それは蒸し暑い初夏の日差しが少し弱まり始めた日暮れ前のことで、
 わたしと遼ちゃんは近所の公園でベンチに並んで座っていた。
 
 その頃の愛奈ちゃんはほんの小さな赤ん坊で、
 だからわたしもまだ彼女に醜い嫉妬や羨望を覚えたりはしていなかった。
 
 わたしと遼ちゃんを見ると大人たちはいつも不思議そうに首をかしげたものだった。

 わたしたちは一緒にいても一緒にいるだけで、何かで遊んだりはしゃいだりはしなかった。

 ただお互いがそれぞれに好き勝手なことをして、なんとなくそばから離れないでいた。

 わたしは遼ちゃんのことが好きだったし、遼ちゃんもわたしのことを嫌ってはいなかったと思う。

 だからわたしたちは、ほとんどくっつくみたいにして、ベンチに隣り合って座ったまま、
 たとえば彼が黙々とルービックキューブの面を揃えようとしているのを、
 わたしは口も挟まずに眺め続けていたりしていた。

 それがたぶんわたしたちの関係の最初のかたちで、なんとなくだけど、それはずっとそうなんだろうと思っていた。


563: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:49:27.80 ID:070JmTtio

 遼ちゃんは、同じ年頃の男の子と比べても取り立てて変わった子というわけではなかった。
 口数が少なくて周囲から一歩引いたようなところはあったけれど、
 それは達観していたり老成していたりというよりはむしろ、引っ込み思案で及び腰な性格が理由のように見えた。

 そんな彼とわたしが仲良くなったのは、べつにお互いの波長があったからとか、そんな特別な理由があったわけではなく、
 ただお互いに周囲に上手く馴染めなくて、偶然に話す機会があって、たまたま家が近かったから、ということでしかない。

 小学二年生のときに転校してきたわたしを、最初に学校まで案内してくれたのは遼ちゃんだったし、
 登下校を一緒にしているうちに、いつのまにか一緒にいるのが当たり前のようになって、
 特に話すこともないのに四六時中一緒にいたりして。
 
 だからわたしはわたしが遼ちゃんの特別だと思っていたし、
 遼ちゃんも遼ちゃんがわたしの特別だと思っていたと思う。

 一緒にいたときは、そういうことをぼんやりとしか感じられなかったけれど、
 ずいぶん時間が経った今にして思えば、ああ、あのときわたしたちは、たしかに互いの特別だったのだな、と、
 そんなふうに思うのだ。


564: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:50:08.85 ID:070JmTtio



 遼ちゃんとわたしが疎遠になったのに、なにか大きな事情があったわけではない。

 それまでお互いがなんとなく一緒にいたのと同じように、
 なんとなく一緒にいることができなくなって、距離ができてしまったのだと思う。

 それでもわたしは遠目で遼ちゃんの様子をうかがっていたけれど、
 中学を卒業する頃には言葉を交わすことだってめったになくなってしまっていた。
 
 それでも一緒の高校に進学したから接点がまったくなかったわけでもないけれど、
 不思議なもので、理由や大義名分でもないと話しかけることもむずかしくなってしまった。

 昔はむしろ反対で、特別な理由でもないかぎりあんまり離れもしなかったのに。

 それはたぶん愛奈ちゃんがいたからなんだろうけど、
 愛奈ちゃんのせいと言ってしまうのは、当然ながら身勝手な話で、
 事実としてはわたしのせいなのだろうと思う。

 いつしかわたしは、遼ちゃんと話すのが怖くなった。
 いつからか、彼の瞳にわたしが映っていないような気がして、怖くなった。
 
 目の前にいても、どれだけ近くにいても、彼にはわたしのことなんて見えていないように思えた。
 その目を見ているのが怖かったのだ。


565: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:50:44.72 ID:070JmTtio

 それでも年をとるにつれて、人間関係も広がっていって、
 わたしは遼ちゃんがいないときに話せる相手を見つけられたし、
 遼ちゃんだってそれは同じだと思う。

 ときどき女の子とふたりで話しているところを見かけることもあった。
 部活の先輩とか、委員会で一緒の子とか。

 そういうとき、彼はいつもそれが当たり前のようなごく自然な顔をしていた。
 おかげでわたしの方も、気にしている自分がなんだかばかみたいに思えて、
 あんまり彼のことを気にしないように努めるようにしていた。 

 努めている、ということは、気にしている、ということなんだけど。

 そういうわたしの気持ちというものは、心の奥底の方で固着してしまって、
 たとえば彼と同じ空間にいるだけで彼のことを少し気にしてしまうのも、それでも話しかけられずにいるのも、
 わたしのからだが自動的におこなってしまう反射のようになっていた。

 これが恋なのかどうかさえ、わたしにはよくわからない。

566: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:51:10.33 ID:070JmTtio



「生見って、好きな奴とかいるの?」

 同じクラスの沢村くんがそう話しかけてきたのは、九月のある放課後のことだった。
 
 夕方のバイトまで少し時間があまって、友達はみんな部活に出ていて、
 暇だから教室に残って本でも読んでいようかと思っていたら、彼がわたしのところにやってきたのだ。

 わたしは正直、この沢村くんという人があまり得意ではなかった。

 よく話しかけられるし、それに返事もするのだけれど、
 彼にはなんだか、相手の顔色や話をうかがうようなところがまったくないように思えた。

 それはそれで美徳ではあるのかもしれないけど、
 わたしは彼のそういう態度が、相手に対する見くびりのように見えて苦手だった。

 そんな相手に向けられた突然の質問だったから、わたしは思わず戸惑った。

「どうして?」

 興味本位だよ、と沢村くんは笑った。

「生見ってあんまり男子と話してるとこ見ないから、どうなのかなって思って」

 わたしはあんまり男の子と話すのが得意じゃない。
 特に理由があるわけではなくて、昔から話す機会が少なかったから、
 何を話せばいいのかわからないのだ。

 ちょっとした会話のやりとりくらいだったらできるけど、
 個人的な話をすることはあんまりない。

 話しかけてくるのだって、沢村くんを含むほんの一握りで、
 その誰もが、わたしだから話しかけるというよりは、分け隔てなく話しかけるというような人ばかりだった。


567: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:52:17.14 ID:070JmTtio

「どうって、べつに」

 人の話を相槌を打ちながら聞くのはそんなに苦にならないのだけど、
 話題が自分のこととなると、いつも言葉に迷ってしまう。
 
 他の友達に同じことを訊かれても、うまく答えられない。
 ただ、いつも、思い浮かぶのは同じ顔で、でもそれだけだ。

 それが恋なのかどうかさえ分からない。

 たぶん恋なんだろうなと思う。

 でも、それをいまさらどうできるのか、わたしにはよくわからない。

 とっさに、「沢村くんの方はどうなの?」と訊いてみた。
 訊くべきじゃなかったのかも、と思ったのはあとからだった。

 沈黙を嫌う臆病さから、会話をできるだけ長引かせようとしてしまうのは、わたしの悪い癖だ。
 興味のないことを訊いてしまうなんて、失礼なことだ。

 遼ちゃんといたときは……無理な会話なんて、しないでいられたのにな。
 そう思うけど、そんな思いすらもう今では慣れきってしまっていた。

 沢村くんは、何かを言いかけて口ごもってしまった。

 そういえば、と思い出して、わたしは言葉を付け足す。

「ほら、弓部先輩……」


568: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:52:45.67 ID:070JmTtio


 わたしが弓部先輩の名前を出した瞬間、彼は表情をこわばらせた。

「弓部先輩?」

「うん。あれ、違うっけ?」

 沢村くんが弓部玲奈というひとつ上の先輩に好意を寄せていたのは結構有名な話で、
 わたしの耳にもその噂が聞こえてきたから、とっさに口に出してしまったのだけれど……。

 彼の表情を見るに、避けた方が無難な話題だったのかもしれない。

「弓部先輩がなに?」

「ううん。なんか前に、ほら、ふたりがいい感じだって噂があったから」

 嘘だった。
 沢村くんが一方的に、弓部先輩に言い寄っている、という内容の噂だった。
 それを直裁的に言うのはさすがにはばかられて、わたしは言い換えた。

「あの人とはなんでもないよ」

 不機嫌そうに息をつくと、彼はそっぽを向いた。
 子供みたいな人だな、と思う。


569: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:53:42.22 ID:070JmTtio

 話題を変えようと思って、わたしは頭の中から彼に関する情報を探す。

「えっと、沢村くん、今日は部活はいいの?」

「ん。ああ、いいんだ」

「部、休みなの?」

「そういうわけじゃないけど……まあ、べつに絶対参加ってわけでもないから」

「なにかあったの?」

 興味なんてないのに、やっぱり話を続けてしまう。
 これってひどいことだよな、とやっぱりわたしは自分で思う。
 でも、やめられない。

 人にどう思われるかが怖くて、いつも、人の顔色をうかがってしまう。

「べつにいいだろ」

 案の定、沢村くんは不機嫌になった。

「それより、さっきの質問の答えが気になる」

「質問?」

「だから、好きな奴とかいるの?」

「……」

 答えなければいけないのだろうか。
 そう思ったときには、わたしの視線は、自然と、遼ちゃんの席の方へと向いていた。
 どうしてだろう。

 ばかみたいだ。


570: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:54:08.24 ID:070JmTtio

「……碓氷?」

「――」

 とっさに、息を呑んだ。

「よく、目で追ってるもんな」

「……そんなこと」

 あるけど、まさか沢村くんに気付かれているとは思わなかった。
 彼はもっと、鈍感な人間だと思っていた。

 勝手な侮り。反省するべきかもしれない。

「あいつのこと、好きなの?」

「そういうわけじゃ」

「趣味悪いな」

「……」

 ――余計なお世話だ。
 と、言ってしまえない自分が、歯がゆかった。


571: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:55:04.26 ID:070JmTtio

 その瞬間、廊下から足音が聞こえてきた。

 足音は、わたしたちの教室へと近付いてきて、やがてその主が姿を見せた。

 わたしは心臓が跳ねるのを感じた。

 イヤフォンをつけたまま、彼は一瞬、わたしと沢村くんの方に視線をよこした。
 それからすぐに、興味を失ったように目を逸らし、自分の机へと向かう。
  
 わたしはなんだか、この状況を誤解されているような気がして、
 そう思うとたまらなく不安になって、思わず声をかけてしまった。

「どうしたの?」

 聞こえなかったのか、彼は机の中から何かを取り出したかと思うと、それを持ってそのまま教室を出ていこうとした。

 その背中に、沢村くんが鋭い声をかけた。

「無視かよ」

 その声に、彼はこちらを振り返って、驚いたような顔をした。
 何か、深く傷ついたような顔をしていた、と思う。
 
 わたしの目が、信頼に値するならば。


572: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:55:49.94 ID:070JmTtio

 少しの沈黙のあと、何も答えない彼に向けて、沢村くんが言葉を続けた。

「何考えてるか分かんねえんだよな、こいつ」

「ちょっと……」

「どうせ聞こえてねえよ。音楽聴いてるんだろ。俺たちの声なんて聞くつもりありません、って態度だ」

「やめなよ」

 どうしてそんなことを言うのか、わたしにはまったくわからなかった。
 彼がしたことが、そんなふうに言われても仕方ないほどのことだとは、わたしにはどうしても思えない。

「気に入らないんだよな。いつもつまんないって顔してさ、自分だけどっか周りから一歩引いてるみたいな顔して、 
 気取って距離置いて、馴れ合わないのがかっこいいとでも思ってるのかもしんないけど、
 ただ誰にも相手にされてないだけだろ」

「やめなって。どうしてそんなこと言うの?」

 どれだけ止めても、沢村くんはわたしの声なんて聞こえないような表情のまま、声を荒げていた。

「ムカツくんだよ。こいつ、俺たちみたいな奴のことバカだと思ってんだ。
 何の悩みもない脳天気で気楽な奴らだと思ってる。そういう奴ってのは態度で分かるんだよ。
 顔を見れば分かる。自分だけがつらいと思ってる顔だ。自分だけが不幸だって思ってる顔だ。自分だけが特別だと思ってるんだ」


573: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:56:26.01 ID:070JmTtio


 そこまで言ってしまうと、彼は口を閉じて不満そうな顔をした。
 わたしは何を言えばいいのかわからなくて黙り込んでしまった。

 彼はただ――遼ちゃんは、ただ、何かを諦めたような顔をして、小さく口を開いた。

「……ごめん」

 その声は、いつもと同じ。以前と同じ。穏やかで、でも、どこか、頼りないような、芯がぶれているような、声。

 遼ちゃんの声は、何かの皮膜を挟んだみたいに遠く思えたけれど、それ以上に、
 久しぶりに彼の口から聞いた言葉が、そんなものだなんて、そんなのあんまりだ、と思った。

 わたしの気持ちも、遼ちゃんの表情も、まったく気にした素振りもなく、
 歯止めがきかなくなったみたいに、沢村くんは言葉を続けた。

「おまえさ、人生楽しくねえだろ」

 遼ちゃんは、その言葉を受けて、表情をほんの少しだけこわばらせた。
 わたしは言葉を失った。

 逃げるようでもなく、腹を立てたようでもなく、彼はそのままの表情で、背を向けて教室を出ていった。

 

574: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:57:25.54 ID:070JmTtio

 何も言わねえのかよ、と、沢村くんが不機嫌そうに吐き捨てた。
 
 怒りに似た感情が、じわじわと胸の内側で固まっていった。
 わたしは沢村くんを睨んでいた。
 
「……なに?」

 言ってしまうのは怖いような気もした。
 でも、結局わたしは言わずにはいられなかった。

「勝手なこと言わないで」

「……なにが」

「――遼ちゃんのこと、なんにも知らないくせに、勝手なこと言わないで」

 そう言ってしまうのはとても怖いことで、わたしは思わず泣きそうになった。
 間違っても沢村くんの前で涙なんて見せたくなかったので、わたしは荷物を持って慌てて立ち上がった。

 

575: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:58:11.84 ID:070JmTtio

 教室を出てすぐのところを、遼ちゃんは歩いていた。

「ねえ、待って」

 思わずそう声をかけたけれど、何を言えばいいのかは考えていなかった。
 彼がゆっくりとした動作で振り返る。
 
 その瞳が、ちゃんとわたしの方を見ていることに、少しだけ安堵する。

「……その、ごめん、ね?」

 とにかく、謝らなければ、と思って口にした言葉だったけれど、
 本当はそんなことを言いたいわけじゃなかった。

 遼ちゃんは、作り笑いを浮かべた。
 
「いいよ、べつに、気にしてないから」

 そんな表情に――わたしが騙されると、彼は本当に思ったんだろうか。
 わたしが、彼の強がりを見破れないと、彼は本当に信じたんだろうか。
 
 そのことが無性に悲しかった。


576: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/12(金) 21:59:00.06 ID:070JmTtio
「あのさ――」

 遼ちゃん、と言いかけて、口に出すことができなかった。

「――碓氷くん」

 言葉にできたのは、まるで他の人のことを言っているような呼び方で、
 わたしはその事実がひどく苦しかった。

 それでも彼は、それが当然のことのように、表情ひとつ変えなかった。
 いつのまにわたしたちは、こんなに遠くなったんだろう。

「なに?」

「えっと、その、さ」

 うまく、言葉にできない。言いたいことは、ちゃんとあるはずなのに。
 わたしが言いよどんでいるうちに、彼はあっさりと話をやめにしてしまった。

「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」

 諦めに近い感情が胸に浮かぶのをとめられなかった。
 それは、そうだ。
 
 わたしはもう、彼にとってなんでもない。特別でも、なんでもない。
 もう彼には別の友達がいて、別の特別がいて、だからきっと、わたしなんていなくても平気なんだろう。

「……そっか、ごめん」

 彼はそのまま、わたしに背を向けて歩きはじめてしまった。

 取り残されたまま、わたしは少しの間じっと立ち尽くしていた。
 わたしも、バイトにいかなくちゃ、と、そう思ったのは少し後のことで、
 そう思えるようになるまでの間、わたしはずっと、考えても仕方のないようなことばかりを、ずっと考えていた。


579: saga 2017/05/26(金) 22:24:21.80 ID:ws1FOXtoo




 遼ちゃんが学校に来なくなったのは、
 そんな会話をした翌週の火曜日だった。

 わたしはその前にほんのすこしだけ彼と話をした。

 それなのに、彼にはわたしの言いたいことなんてなんにも伝わっていなかったみたいだった。

 それも仕方のないことなのかもしれない。

 わたしは結局、彼にとってはもうなんでもないのだろうから。

 それでも、もはや何の関係もないような相手だったとしても、
 気になって仕方なくて、ストーカーみたいに家の近くまで行ってしまったわたしは、
 やっぱり少し変なんだろうか。


580: saga 2017/05/26(金) 22:24:48.98 ID:ws1FOXtoo

 インターフォンを押して訪ねてみるつもりにはどうしてもなれなくて、
(……扉を開けた彼が、わたしの姿を見つけてあの目を向けてくるのが怖かった)
 結局家のまわりをぐるぐるするだけで、
 近所の人の目が気になって、すぐに引き返すことにした。

 その途中で、昔よく遊んだ児童公園を見つけたものだから、
 あたかもそこで一休みするのが目的だったというように、 
 自販機で温かい飲み物を買ってベンチで休むことにした。

 少なくともそれならば、誰にも何も言われることはない。

 そう思っていたんだけど……。

「人探し?」

 突然そう声を掛けられて、わたしはビクリとした。


581: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:25:20.59 ID:ws1FOXtoo


 振り返ると、そこに立っていたのはひとりの女の子だった。

 小学生くらいの――ふつうの、女の子。
 でも、なんだろう……? 何か、おかしいような気もする。

 どこが、というわけではないのだけれど……。

 彼女は、わたしが座っているのとはべつの、ひとつ隣のベンチに腰掛けて、
 膝の上に白い猫をのせていた。

「こんにちは」と彼女は笑った。
 その笑顔は、なんだか、どこか、技巧的に見えた。
 つくりものめいて見えた。

「こんにちは」とわたしは鸚鵡返しした。
 わたしがこの公園に入ってきたとき、この子はいただろうか?
 ぜんぜん、気が付かなかった。

 女の子は、そこにいるのが当たり前のような、そこが彼女のための空間であるかのような、
 そんな雰囲気をたたえていて、その表情は、わたしをほんの少しだけ萎縮させた。

 固まってしまったわたしに、

「人探し?」

 と、彼女はもう一度訊ねてくる。


582: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:25:49.44 ID:ws1FOXtoo

 とっさにうまく返事ができなかったわたしを見て、女の子はくすくす笑った。

 なんだか、ずっと年上の女の人にからかわれているような、そんな気さえした。

「人探しってわけじゃ、ないけど……」

「そうなんだ。はずれ」

 少女はそう言いながら、膝の上の猫の背中を柔らかに撫でた。

「……どうして、そう思ったの?」

 わたしがそう問いかけると、彼女はまた――例のつくりものめいた表情で――笑う。

「ただの勘、みたいな? でも、やっぱりあんまりアテにならないね」

「……あなた、誰?」

「わたしのことは、いいじゃない」

 そう言って彼女は、それ以上踏み込ませないと言うみたいに、すぐに言葉を続けた。

「それより、ねえ、お姉さん。突然なんだけど、何か叶えたい願いとか、ある?」

「……え?」

「なんでも、ひとつ、ひとつだけ、願いが叶うよって言われたら、どんなことを願う?」

 わたしは、その突然の質問に、一瞬だけ漠然とした景色をイメージして、
 それからすぐ、わからなくなった。


583: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:26:33.64 ID:ws1FOXtoo

 公園はもう、夕日の橙で染め上げられていた。
 影が濃く長く伸び始め、景色のなかの黒はひそやかにその領土を広げ続けている。

 秋の風のざわめき、しめやかな虫の声、子供たちの話し声が、道の向こうから聞こえてきた。
 
 そんな景色のなか、彼女の表情だけが、工芸品のように浮かび上がっている。
 この場にそぐわないような、
 それでもなんだか、輪郭が景色に滲み溶け込んでいるような、
 奇妙な存在感。

「……お姉さん、お返事は?」

 小さい子供を相手にするみたいな話し方で、彼女はわたしに答えを求めた。

「どうして突然、そんなことを?」

「ただの世間話だよ。こういう話、嫌い?」

「そういうわけじゃ、ないけど……」

「ねえ、どうかな? お姉さんは、どんなことを望む?」

 ……やっぱり、変な子だ。
 どこがというわけじゃないのに、どこかがおかしい。ずれている。
 
「……あなたは?」


584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:27:35.87 ID:ws1FOXtoo

「わたし?」

 驚いたみたいに、彼女は目を丸くして、
「それを訊かれるのははじめてかな」と、小さな声で呟いた。

「わたしはね、うん。決まってるの」

「どんなの?」

「そうだなあ。会えなくなった友達と、もう一度会えますように、かな」

「……ふうん」

 わたしは、その願いごとが、とても自然で当たり前のものに見えて、
 彼女に奇妙な恐れを抱いていた自分を、ほんのすこしだけ軽蔑した。

「お姉さんは?」

「……うん。そうだね。だったら、わたしは」

 どうしてだろう。
 当たり前みたいに、答えてしまった。

「……友達と、仲直りできますように、かな」

「喧嘩したの?」

「ううん。そういうわけじゃ、ないんだけど。なんだか、お互い、距離ができたっていうか……」

「それって、きっと……寂しいよね」

 どうして、そんな話をしてしまったんだろう?
 ひょっとしたら、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。

 ずっと、ずっと。


585: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:28:46.52 ID:ws1FOXtoo

「ねえ、お姉さん。だったらさ、その願い――」

 その瞬間、ぞわり、と、悪寒のようなものが、背筋を走ったのがわかった。

「――叶えてあげようか?」

 その、なんでもないような、たった一言で、わたしは硬直してしまった。
 子供向けのアニメのモノマネみたいな、よく聞くような台詞なのに。

 わたしは、どうしてか、途方もなく不安になった。

 とっさに首を横に振ったのは、臆病だったからだろうか。

「そう……? 残念」

 本当に残念そうに、彼女は溜め息をついた。

「……そういうことは、自分でなんとかしたいの」

 わたしのその言葉は、半分くらいは本音で、半分くらいは、言い訳だ。

「そういうものなんだ」

 なんだか納得がいかないような顔で、彼女は首をかしげる。

 その仕草のひとつひとつは、ごく当たり前の、少女のように見えるのに。


586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:30:55.53 ID:ws1FOXtoo

「でも、わたし、お姉さんのこと、好きになっちゃった」

「……え?」

「だから、応援するくらいはいいでしょう? 上手くいきますように、って」

「……うん」

 その言葉には、どうしてだろう、素直に頷けた。
 ほんの少し、心が軽くなった気がする。

「うん。だったら――応援するね」

 ありがとう、と言いかけた瞬間に、少し強い風が吹いた。
 砂埃が舞い上がって、わたしはとっさに目を瞑った。

 わたしが再び目を開けたとき、女の子の姿は、もうそこにはなかった。
 風にさらわれでもしたかのように。

 不意に、後ろから足音が聞こえる。

 振り返ると、そこに見覚えのある女の子が立っていた。
 さっきまでの子とは違う。ランドセルを背負っている。

「……愛奈ちゃん?」

 わたしがそう声を掛けると、彼女は怯えたように視線を揺らした。
 でも、どうしてかこちらから目を離そうとはしない。


587: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:31:40.60 ID:ws1FOXtoo

 いろんなことが一度に起きて、わたしは少し混乱した。
 さっきの女の子は、どこに行ったんだろう。
 あたりを見回しても、さっきの子はいない。

 愛奈ちゃんが、わたしの目の前にいる。

 何かを言いたげに、こちらを見ている。

「あの……わたしのこと、分かる?」

 遼ちゃんとわたしが疎遠になる前までは、何度か顔を合わせたことがある。
 中学の頃だって、まったく会っていなかったわけではないはずだ。

 覚えているかもしれない、と思ってそう訊ねたのだけれど、
 愛奈ちゃんの返事はもっとはっきりとした肯定だった。

 こくん、と彼女は頷いた。

 彼女の表情は真剣で……なんだか、切羽詰まっているように見える。

「あの、小夜さん」

「……どうかしたの?」

「……お兄ちゃん、知りませんか」

「え? わたしは、見かけてないけど」

 そうじゃない、と言うみたいに、彼女は首を横にぶんぶん振った。


588: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/26(金) 22:32:53.31 ID:ws1FOXtoo

「家にいないんです」

「……そうなんだ。どこかに行ったのかな」

 また、首を横に振った。どうしたんだろう。何が言いたいんだろう。

「……家に、帰ってこないんです」

 それは、さっきと同じ意味の言葉じゃないのか、と、少し怪訝に思ってから、
 わたしは彼女の言いたがっていることに思い当たった。

「……いつから?」

「月曜の夜から、ずっと、帰ってこなくて」

「……月曜の夜?」

 今日は……木曜日だ。

 家に帰っていない?
 無断外泊? あの遼ちゃんが? ――まさか。

「小夜さん。お兄ちゃんがどこに行ったか、知りませんか」

 愛奈ちゃんは、震える声でそう言ってから、嗚咽をこぼした。

「お兄ちゃん、このまま帰ってこなかったら、わたし……」

 遼ちゃんが、いなくなった? どうして?
 何かの事故に巻き込まれた? もっと悪いこと?
 それとも、彼は……。

「……わたし、ひとりぼっちになっちゃう」

 愛奈ちゃんは、本当に小さな声で、怯えたようにそう呟いた。
 彼女の瞳からぽろぽろと涙が流れるのを、わたしは呆然と眺めていた。


591: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:23:22.50 ID:41WFJZmZo



 泣きじゃくる愛奈ちゃんをベンチに座らせて、わたしは自販機で温かいお茶を買って彼女に渡した。
 ありがとうございます、と、こんなときも愛奈ちゃんは礼儀正しかった。

「それで、遼ちゃんが家に帰ってないって……」

 愛奈ちゃんは、わたしの言葉にこくんと頷いた。
 それ以上、続きはないらしい。

 遼ちゃんが、帰ってこない。 
 遼ちゃんが、いなくなった。

 わたしはそれを、どうしてだろう、意外だとは思わなかった。

 遼ちゃんはいつも、そこにいるのにいないような顔をしていた。
 いついなくなってもおかしくないような、そんな。

 でも、同時に、ありえない、とも思った。

 遼ちゃんが愛奈ちゃんを残してどこかにいなくなるなんて、ありえない。

 それはわたしの、勝手な思い込みだったのだろうか?


592: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:23:50.16 ID:41WFJZmZo

 愛奈ちゃんは俯いたまま深く息を吐き出して、それからゆっくりと吸い込んだ。

 そしてわたしの方を見上げる。

「月曜日、お兄ちゃんはいつもみたいに学校に行きました。
 わたしが最後にお兄ちゃんに会ったのはその日の朝です。
 お兄ちゃんは高校に入ってから、ほとんど毎日、学校が終わったらそのままバイトに行っていました」

 とても小学生とは思えない、丁寧で落ち着いた話し方だった。
 そういう子なのだ。

「火曜の朝に、おばあちゃんがお兄ちゃんのバイト先に連絡しました。
 バイト先の人によると、お兄ちゃんは閉店までしっかり働いていたそうです。
 特に様子がおかしいわけでもなかったと言われたそうです。
 おばあちゃんは、何かあったのかもしれないと言って、バイト先の人に事情を説明しました」

 愛奈ちゃんの話し方はとても真剣だったけれど、なぜだろう、
 それが子供の言うことだというだけで、ある種のおかしみのような気配が生まれる。
 
 それって悲しくないだろうか?

593: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:24:21.60 ID:41WFJZmZo


「おばあちゃんが、学校には風邪を引いたと連絡して、バイト先の人にも似たような説明をしました。
 どうして、とわたしは思ったけど、もしお兄ちゃんが戻ってきたとき、妙な噂になるといけないから、と言ってました。
 そうして今日になりました。おじいちゃんはいつものように仕事に行って、おばあちゃんもいつもみたいに家事をしています。
 まるで困ったことなんてなんにも起こってないみたい」

 それを恨まないであげてほしいな、とわたしは思った。
 どんなときでも、そうせずにはいられないのだ。

「小夜さん、お兄ちゃんを、どこかで見かけませんでしたか?」

 愛奈ちゃんは、何かにすがりつくみたいな目でわたしの方を見た。

 残念だけど、とわたしは首を横に振った。

「わたしが遼ちゃんを見たのも、月曜日が最後なの。わたしが見たとき……」

 遼ちゃんは。
 そうだ。

 ――怒るのって、エネルギーがいるだろう。

 ああ、あのときのあの言葉は、もしかしたら、
 そんなエネルギーは残っていない、という意味だったのかもしれない。

 遼ちゃんは……。

「遼ちゃんは……普通だったよ」

 そのときわたしは、愛奈ちゃんに嘘をついた。
 それがどうしてなのかは、自分でもよくわからない。

 そうですか、と愛奈ちゃんは目を伏せた。


594: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:24:51.84 ID:41WFJZmZo

 愛奈ちゃんはそのあと、何かを考えるみたいにずっと黙り込んでしまった。
 そうしてまたポロポロと涙をこぼし始める。

 自然と溢れてきてとまらないみたいに。
 そうやって涙を流せるのが、ほんのすこしだけ羨ましいとも思った。

 同時に、ほんのすこしだけ、怒りに近い感情が自分の中で渦巻くのに、気付かずにはいられなかった。

 どうしてだろう。

 でも、それは、わたしがどうこう言えることじゃない。

 愛奈ちゃん。
 彼女は知ってるんだろうか?

 遼ちゃんのことを、ちゃんと分かっていたんだろうか?


595: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:25:20.85 ID:41WFJZmZo



 遼ちゃんのお姉さんが愛奈ちゃんを残して家を出ていったときから、
 遼ちゃんのなかで何かが変わったのがわたしには分かった。

 彼はそのときから、ごく当たり前の子供時代を投げ捨ててしまったように思えた。

 まるでそこで得られるものが取るに足らないがらくたにすぎないというように、
 何かを楽しむことも、何かではしゃぐことも、声をあげて笑うことだってしなくなった。

 ただ気遣うような愛想笑いと、本音の見えない追従があるだけ。

 その韜晦に秘められたものがなんなのか、わたしはほんのすこしだけ分かるような気がしていた。
 それも、分かったつもりになっていただけなのかもしれない。


596: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:25:53.00 ID:41WFJZmZo

「どうしてこんなことになるんだろう?」

 公園のベンチに並んで腰掛けて、ただぼんやりと過ごしていたとき、
 遼ちゃんは突然そう言った。

 わたしは遼ちゃんから、愛奈ちゃんのことやお姉さんのことを聞かされていたから、
 遼ちゃんが気にする理由もわかるような気がした。

 でも、それは遼ちゃんが抱え込むようなことではないはずだ、とも思った。
 
 だって、わたしたちはそのとき、まだほんの子供だった。
 今だってまだ、子供でしかない。

「僕にはどうしても分からないんだよ」

 本当に、心底疑問だというふうに、彼は言うのだ。
 
「愛奈ちゃんのこと?」

「どうして平気なんだ? どうしてそんなことを、平気でできるんだ?」

「平気じゃ、ないのかもしれないよ」

「だとしても……」と遼ちゃんは言う。

「平気じゃないとしても、そんなのおかしい」

「うん……」

 でも、仕方ないよ、と、わたしはそう言った。

 遼ちゃんは苦しげに俯いた。

「……間違ってる」

 ――遼ちゃんのことを、わたしは、愛奈ちゃんは、分かっていたんだろうか?
 そんな疑問の答えは、とっくのとうに分かりきっている。
 
 分かるわけなんか、ないのだ。


597: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:26:19.38 ID:41WFJZmZo



 立ち上がろうとしない愛奈ちゃんを連れて、彼女の家まで向かった。
 
 遼ちゃんの家に行くのは初めてではないけれど、珍しいことではあった。

 遼ちゃんは自分の家に友達を連れて行こうとはしなかった。

 どうしてなのか、遼ちゃんは言おうとしなかったけど、わたしにはなんとなく分かるような気がする。
 
 遼ちゃんの家にわたしが行ったとき、遼ちゃんのお母さんとお祖父ちゃんは口喧嘩をしていた。
 
 いつもなんだ、と遼ちゃんは恥ずかしそうに言っていた。

 そういうことなのだろうと思う。

 愛奈ちゃんはわたしを家の中に招いてくれた。

 もう、お祖父ちゃんはとっくに亡くなっている。
 
 家には遼ちゃんのお母さんがいた。
 愛奈ちゃんの面倒を見るために、それまでしていた仕事をやめて家にいるようになったのだと聞いていた。

「なんだか久しぶりじゃない?」と、当たり前みたいに笑うおばさんが、
 わたしはほんのすこしだけ怖かったけれど、ほんのすこしだけかわいそうだと思った。

 遼ちゃんがいなくなったのに。
 まるでそれを認めたくないみたいに。


598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:26:58.54 ID:41WFJZmZo


 わたしは、それをそうだと分かったうえで、それでも他に放つ言葉を見つけられなかった。

「遼ちゃんのことなんです」

「ああ、うん」

 おばさんはキッチンに向かって、麦茶とコップを用意してくれた。
 もう九月なのに、風は冷たいくらいなのに。

 それがなんだか寂しいと思った。

「帰ってこないの」

 おばさんはそれ以上何も言わなかった。

 どうぞ、と差し出されたコップに口をつけて、麦茶を飲む。

「どうしてだろう?」

「どうしてでしょうね」

「何も言わずに無断外泊なんてする子じゃないし、もう三日も連絡がないなんて……」

「警察には?」

 おばさんは小さく首を横に振った。まるでその言葉を恐れていたみたいだった。
 

599: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:27:31.93 ID:41WFJZmZo

 それから彼女はつけっぱなしになっていたテレビに視線を向けた。
 ぼんやりとした、何も見ていないような目だな、とわたしは思う。
 
 愛奈ちゃんはランドセルを置いて手を洗った。
 それから自分の分のグラスをもってきて麦茶を口にすると、鞄を広げてプリントを取り出した。

 宿題らしい。
 宿題。

「小夜ちゃんは、何か聞いてない?」

 期待のこもった目で、おばさんはわたしを見た。

「すみませんけど、何も。遼ちゃんとは、あんまり話してなかったから」

「そう、よね。子供の頃、仲が良かったって言ってもね」

 そうじゃない、とわたしは思ったけれど、うまく説明できる気がしなかった。
 ただ、遼ちゃんはわたしに何も教えてくれなかった。

 ただそれだけなのだ。


600: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:28:21.25 ID:41WFJZmZo

「何か、抱えてることがあるなら、話してほしいって、わたしはそういうことを言ったんです」

「……それって、いつ?」

「月曜の、朝です」

「……」

「遼ちゃんは、わたしには何も言ってくれなかった」

 いろんな可能性が、あるとは思う。
 何かに巻き込まれた、と、そう考える方が、もしかしたら自然なのかもしれない。

 でもわたしは、遼ちゃんは自分の意思で、どこかに行ってしまったような気がしてならない。

 遼ちゃんは……。
 どうしてわたしは、遼ちゃんと一緒にいることができなかったんだろう。
 以前のように、ただ一緒にいるという、ただそれだけのことができなくなってしまったんだろう?
 
 どうしてもそれがわからない。


601: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:29:12.04 ID:41WFJZmZo

「何か、追い立てられてるみたいだな、と、思ってはいたの」

 おばさんは、そう言った。

「思ったことを口に出さない子だったし、自分でこうと決めたことは、絶対に譲らないところがあったから……。
 危なっかしいとは、思っていたの。でも、当たり前みたいに過ごしているから、わからなくなっちゃった」

 自嘲するみたいに笑って、彼女は言葉を続ける。

「ねえ小夜ちゃん。わたしが悪いんだと思う?」

「おばさんは、わたしが悪いと思いますか?」

「……」

「わたし、ひとつだけ分かることがあります」

「……?」

「何が起きたにせよ、遼ちゃんはきっと、自分のせいだ、自分の責任だって思ってます」

「……そうかもしれない」

 そう言って彼女はまたテレビに視線を投げ出した。そうして何かに気付いたみたいに声をあげた。
 わたしも画面に目を向ける。


602: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:29:40.20 ID:41WFJZmZo

 隣町で殺人があったとの報道。
 
 死んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
 誰かに刺されていたらしい、と言っていた。

 職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訪ねたときに死体を見つけたのだという。

 不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。

 姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。
 バイクがないから、今回もただ帰っていないだけなのかもしれない、と。

 妹の方は、真面目で挨拶もちゃんとする良い子だった、と同じ人物。
 何かに巻き込まれていないといいんだけど、と、そこで話は終わった。

 死体。

 おばさんの表情がこわばるのが見て取れた。

 大丈夫ですよ、心配しなくてもきっとそのうち帰ってきますよ。
 そんな気休めがわたしにはどうしても言えなかった。

 遼ちゃんは帰ってこないかもしれない。そう思うと胸が締め付けられるような思いがした。


603: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/05/31(水) 23:30:16.23 ID:41WFJZmZo



 翌日の学校にも、やはり遼ちゃんの姿はなかった。

 不思議なことに、その日は沢村くんも学校を休んでいた。
 うるさいくらいの健康優良児だった彼が病欠なんて、珍しいと思ったけど、わたしは気にも留めなかった。

 わたしはその日、クラスの人たちや、文芸部の人なんかに話を聞きに行った。
 
 でも、誰も遼ちゃんのことなんて誰も知らなかった。

 文芸部の部長さんは、「ただの風邪じゃないの?」と不思議がっていた。

 クラスメイトたちは、「そんな奴居たっけ?」とでも言いたげだった。

 わたしの苛立ちが誰かに伝わればいいと思った。

 最後に、わたしは図書室に向かった。

 図書委員の女の子はわたしと同じ学年で、篠目さんという名前だった。

 彼女に、碓氷くんのことについて知らないか、とそれとなく訊ねた。

「来てない」と彼女はそっけなく言った。まるでわたしなんてとっとといなくなってほしいみたいな言い方だった。

「いないの?」と彼女は聞いてきた。

「そうみたい」

「遊園地かもしれない」

「遊園地?」

「そんな話をしたから」

 冗談だと思って、わたしはそれ以上話を聞かなかった。

 誰も遼ちゃんの行方について知らない。

 どうしてわたしたちは後悔ばかりなんだろう?


606: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/13(火) 21:58:06.30 ID:9E37mtxco



 お姉さんの友達は、なんだか遠くに行ってしまっているみたい、と、公園で出会った少女が教えてくれた。

「遠く?」

 彼女は例の精巧な表情で、戸惑ったように俯いた。

「具体的には、ちょっと、わからないかも」

「……どうして、遠くだって思うの?」

「探してみたの。ほんのすこしだけど。でも、見つからなかった」

 本当にちょっと話をしただけなのに、彼女はわざわざ探してくれたんだろうか。
 ……わたしは遼ちゃんの特徴も伝えていないのに。

 その空回りのやさしさがうれしくて、わたしは彼女の頭を撫でた。

 彼女は不思議そうな顔でわたしの顔を見たあと、にっこりと笑った。
 その表情のまま、言葉を続ける。

「たぶん、何かに巻き込まれたんだと思う」

 不穏な言葉に、わたしは頷く。そうだね、と。
 それ以外に何も考えられない。


607: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/13(火) 21:58:38.92 ID:9E37mtxco

「わたしにも探れないくらいだから、ひょっとしたら、神様と同じくらいの力に巻き込まれたのかも」

 その大袈裟な言い回しがなんだかおかしくて、わたしは笑ってしまった。

「がんばって、探してくれたんだね」

「ん……まあ、がんばって、ってほどではないんだけどね」

「……神様と同じくらいの力って、どういうこと?」

 女の子は、わたしの質問に首を傾げた。

「そのままの意味。わたしが探せないくらい遠くってことは、神様と同じくらいの大きさの力だと思う」

 なんとなく、この子の持つ不思議な雰囲気を感じ取ってはいた。 
 だから、神様と同じくらいの大きさ、という彼女の不思議な比喩のことも、すんなりと受け入れられた。

「どうすればいいのかな」

「友達のこと?」

「うん。何かに巻き込まれてるんだったら、心配だな」

「どうしようもないよ」と彼女は言った。

 その言葉には、深い実感のようなものがこもっていた。
 どうしようもないことをたくさん知っているみたいに。


608: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/13(火) 21:59:31.31 ID:9E37mtxco


「でもね、ほんのちょっとなら、手助けできると思う」

 そう、彼女は言った。

「ほんのちょっとだけど」

「本当?」

「うん。言葉を伝えることくらいなら、できるかもしれない」

 言っている意味はよくわからなかったけれど、わたしは頷いた。

「ありがとう」

「どういたしまして。それで、なんて伝えたらいいかな」

 訊ねられて、口ごもった。

 なんて伝えたらいい?

 わたしは彼に、何を言いたいんだろう。

「……そう、だね」

「うん」


609: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/13(火) 22:00:04.43 ID:9E37mtxco

 わたしは――。
 その言葉が、届かないと知っているから、彼女に言ったところで、どうにもならないと知っているからこそ、
 いま、言葉にすることができるような気がした。

 でも、それはただの錯覚でしかなくて、言いたい言葉なんてちっともまとまらない。
 遼ちゃんに言えることなんて、本当にあるんだろうか。

 だってわたしは、これまでずっと、遼ちゃんと言葉も交わしていなかったのだ。
 そんなわたしが何を言ったところで、遼ちゃんに伝わったりするのだろうか。

 彼はどこかに行ってしまった。それは、彼自身の意思のようにも思える。
 わたしに、引き止める権利なんてあるだろうか。

 愛奈ちゃんのことを言い訳にしてしまうのは簡単だ。
 でも、わたしは、本当は愛奈ちゃんのことなんかより……。

「……」

 本当に、どうしてわたしたちは、いつも後悔ばかりなんだろう。

「お姉さん?」

「そうだね。じゃあ、一言だけ、お願いしてもいい?」

 彼女は頷いた。

「それじゃ、あのね――」


612: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:09:37.44 ID:GsKuZ8lzo

◇[Stockholm]R/b


 沢村翔太の死体が発見された日の夜、僕は自分の荷物を確認していた。
 この世界に来るときに持っていた荷物。

 つまり、バイト帰りに咲川すみれと会って逃避行を始める前までに、
 僕が背負っていた鞄に入っていた荷物のことだ。

 ここ何日かの間、妙な話にばかり付き合わされて、そういうことをする機会があまりなかった。

 鞄の中にはお気に入りのMDプレイヤー。それから水を入れていた水筒。財布。
 使い物にならない携帯電話。それから、一冊の本。

 なんだか懐かしいような気持ちで、僕の持ち物を眺めてみる。
 プレイヤーにはいろんな音楽を片っ端から詰め込んだプレイリスト。
 聴き尽すことはいつまで経ってもできないような気がする。

 水筒は、まだ少し中身が残っていた。
 それももう飲むことはできないだろう。できるにしても、したくはないだろう。

 財布には多くもなければ少なくもない金。
 それも、すみれと来てからいくらか使って減っていってしまった。
 月初めに給料が出たばかりだったので、たまたま金が多く入っていたが、それもやがては尽きるだろう。
 
 携帯電話は、鳴らないし、どこにも通じない。ライトと時計とカレンダーとメモ帳くらいにはなるかもしれない。
 でも、もともとそうだった。僕の携帯はライトと時計とカレンダーとメモ帳くらいの機能しか果たしていなかった。


613: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:10:36.46 ID:GsKuZ8lzo

 このわずかな持ち物を見て、これが僕の人生なんだと思った。
 
 これが僕がここまで持ってきた人生のすべてなのだ。
 それ以外のほとんどすべては、僕には得られなかったか、得られたにしても失われてしまったか、
 あるいは僕が望んで手放してきたか、とにかくそのいずれかなのだ。

 今、現にここにあるもの。それが僕のすべてなのだと思う。

 こんなものを後生大事に抱え込んでいたって仕方がないじゃないか、と僕は思った。

 最後に、本の表紙に目を止めた。
 
 たしか、図書館の除籍本をもらったのだったか。
 それとも、どこかの店で自由文庫の棚を見つけて、手に取ったのだったか。

 それは、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』だった。

 僕はパラパラとページをめくって、その詩集をぼんやりと眺める。
 そのうちの一節に目が止まる。
 
『かなしみ』と題された、有名な詩だった。

 少しだけ、いろいろなことを思い出せそうな気がしたけれど、
 それがなんなのかは結局わからないままだ。そんなことばかり繰り返している。
 
 何をなくしたんだろう。
 あるいははじめから持っていなかったのか。

 かつて僕がほしいと思っていたもの、どうしても手に入れたいと望んでいたもの、
 それがなくては耐えられないと思うほど好きだったもの、どうしようもなく求めてしまったもの。
 そのどれもが、なぜだろう、ひとつたりとも鞄に残っていない。

 あるいは、ひょっとしたら、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

 どうしてだろう。

614: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:11:16.82 ID:GsKuZ8lzo

「遼一……?」

 不意に声を掛けられて、頭をあげた。

 すぐ傍に、すみれが立っていた。僕は自分が篠目あさひの家のリビングのソファに腰掛けていることを思い出した。

「どうしたの?」

「いや、少し」

「少しって。まだ休んでないと、傷治らないよ」

「どうせすぐには治らないよ」

「そうは言っても休んでてもらわないと」とすみれは言った。

「もしかしたら荒事になるかもしれないし」

「荒事?」

「沢村翔太のこと。もうひとりの方は、生きてるかもしれないんでしょ」

「ああ、うん」

「何か考えごと?」

「……いろいろね。なんだか急にわからなくなって。ねえ、すみれ、あのさ」

 彼女はキッチンの水道でコップに水を飲んで、それを一気に飲み干した。
 それから僕の方を向きもせずに訊ねてくる。

「なに?」

「それって僕らがやらなきゃいけないことなのかな」

 てっきり、責められるかと思ったけど、違った。

「ごめんね」

 彼女は、そう言って謝った。


615: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:11:48.41 ID:GsKuZ8lzo

「そうだよね。べつに、わたしたちがやることじゃないのかもしれない」

「……どうしたの?」

「……刺されるなんて思ってなかったから」

 ああ、そうか、と納得した。
 それは、そうだ。

 僕が刺されて、すみれとあさひはそれを見た。

 僕らはどこか現実感がないまま過ごしていた。
 でも、あの痛みは、熱は、本物だった。

 人が刺されれば、血が出るのは当たり前だ。
 僕らは気付かないふりをしていたのかもしれない。

 すみれがあんまり落ち込んだ顔をするものだから、僕は言い出しづらくなってしまった。

 べつに、刺されて、死ぬのが怖くなったわけじゃない。
 ただ、自分が考えなくてはいけないことが、他にあるような気がするだけだ。


616: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:12:29.10 ID:GsKuZ8lzo

 僕は、この世界の僕のことを思い出す。
 彼が、僕が、あさひに投げかけた言葉を思い出す。

 あんなふうに、あんな言い方を、あんな態度を、あんな……。

 あの姿を見て、僕にはすべてが分からなくなってしまった。

 何が正しくて、何が間違っていたのかも。
 最初からわからなかったのに、一層、分からなくなってしまった。

 僕は溜め息をついた。

「沢村翔太が……沢村翔太が犯人だったとして、次に何をするか、僕らには分からない。
 あさひが今夜、夢を見るかどうか。後のことは、それから考えよう」

「……うん」

「ねえ、すみれ。さっきは妙な弱音を吐いたけど、僕は沢村翔太を止めるつもりだよ。
 もし彼が続ける気なら、だけど。だって、この世界の僕が死んだら……」

 この世界にもいるはずの、愛奈が悲しむだろうから。
 でも、どうなんだろう。僕が死んだら、愛奈は悲しむだろうか。

 ……この世界なら、そうかもしれない。

 だとすれば、僕がここに来たことにも、意味があるのかもしれない。
 それはただ、ごまかしだという気もするけれど。

 あるいは僕は、ただ、彼が正解だったと、そう思っているのかもしれない。

「……とにかく、僕はやる。すみれこそ、不安なら無理に付き合うことないよ」

「わたし?」

「一応女の子だから」

「一応って何?」 
 
「言葉のあやだよ」

 すみれは笑った。


617: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:12:54.90 ID:GsKuZ8lzo



 その晩に見た夢のことを、あさひは次の日の朝教えてくれた。

 僕たちはあさひの家の近くのコンビニで朝食を買った。
 サンドイッチとパンとおにぎりと、食べ物はたくさんある。飲み物だってある。
 寝床があって食べ物があって……足りないものが思いつかない。

「碓氷がまた襲われる」

 灰皿の傍で煙草を吸う僕とすみれに、彼女はそう教えてくれた。
 
「どっちの?」

「分からない」

「刺されてた?」

「うん」

 傷はほとんど痛まなかった。
 まるで自分が不死身でもなった気分だった。

 さて、どうしようね、と誰かが言うべきだ。でも僕は言わなかったし、二人も何も言わなかった。

 ただ、あさひだけが少し俯いた。

「ごめんね」

「なにが?」

「なんだか、巻き込んじゃったね」

「きみだってそうだろう」と僕は言った。実際、彼女だって巻き込まれた側だ。


618: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:13:28.22 ID:GsKuZ8lzo


「わたし、なんにも知らないふりをしてればよかったのかな。碓氷だってきっと、わたしに助けてほしいなんて思ってないだろうし」

「かもね」

 でも、それは僕達にはどうでもいいことだった。

「ねえ、あさひ。あなたは間違ってないと思うよ」

 そう言ったのはすみれだった。僕はふたりのやりとりを黙って聞いていた。

「それは、あなたは見て見ぬふりをすることもできた。でも、止めようとしてる。それって正しいことだと思う。
 正しいことがなんなのか、わたしにはわからないけど、知ってしまったからにはどうしても見逃すことのできないことってあるもの」

「……ありがとう」

 とあさひは言ったけれど、僕は別のことを考えていた。
 
 でも、考えるのは後にすることにした。

 どのみち今は、このふたりと行動を共にするべきだろう。
 

619: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:14:35.31 ID:GsKuZ8lzo

「……それで、どうする?」

 僕たちは一度あさひの家に戻り、そこで話をすることにした。
 僕の問いかけに、二人は目を見合わせる。

「また、張るのか? 後手に回って、今度もやられっぱなしじゃ同じことだろう」

「どういう意味?」

「いまのところ、あさひの予知夢は百発百中だ。僕も刺された。あさひの夢を頼りに現場を抑えるだけじゃ後手に回ることになる」

「でも、他に……」

「もし沢村翔太が、僕達と同じように世界を渡ってきたとしたら、沢村翔太はどこに潜伏しているんだろう?」

「どこ、って?」

「僕達に宿がないように、沢村翔太にも宿がないかもしれない」

「ちょっと待って。まさか、沢村翔太の居所を探ろうって話?」

「もちろん見つけられる確信があるわけじゃないけど、ただ何かが起きるのを待っているよりはいい」

 そうだね、とあさひは言った。

「たしかに、そうかも。何かが起きる前に沢村くんを取り押さえられたら……」

「……そういえば、ひとつ疑問があるんだけど」

 すみれの言葉に、僕とあさひは彼女の方を見る。

「取り押さえて、どうするつもり? まさか、説得が通じるなんて思ってないよね?
 仮説が正しいなら、沢村はもう四人殺してるんだよ」

 僕はあさひの方を見た。どうする。『どうする』?


620: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:15:25.64 ID:GsKuZ8lzo

 沢村翔太はこの世界の人間ではなく、既にこの世界の人間を四人殺していて、更に殺し続けようとしている。
 沢村翔太はこの世界では既に死んでいる人間だ。

 警察に引き渡す? ……それも、不可能ではない。
 おかしなことだと思われはするだろうが……。

 いや、でも、こんな状況の僕達が証言なんてできるはずもない。
 たとえその場を目撃したとしても。

 かといって、捉えて説教をしたとしても、彼にはもう失うものなんてないだろう。
 同じことを繰り返さないなんて、保証はどこにもない。

 どうなる?
 どうなるんだ?

 あさひは何も言わない。

 僕はそのとき、ごく自然にひとつの打開策を思いついていたけれど、
 それをこの場で口にだすのは憚られた。

「あさひ。次に碓氷遼一が刺されるのは、やっぱり夕方?」

「……うん。そうだと思う」

「場所は?」

「たぶん、だけど……あの、碓氷の家から少し歩いたところの、丘の上。住宅街に、広い公園があるの、分かる?」

「……ああ、うん」

「あそこ、だと思う。碓氷のそばには、小学生くらいの女の子がいた」

「……遼一、大丈夫?」

「うん……」


621: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:16:13.71 ID:GsKuZ8lzo

 愛奈。
 愛奈。
 この世界に来てから、僕は愛奈の姿を見ていない。
 見られなくてよかった、という気もする。
 もし、愛奈の姿を見てしまったら、僕はまともではいられないかもしれない。

 どうにかなってしまうかもしれない。
 
 結局僕は、愛奈を利用していただけなのだろう。

 ただ、理由がほしかった。
 だから、愛奈を、そこに押し込めた。

 それはきっと愛情じゃない。
 憐憫ですらない。

 けれど思考は、つじつま合わせのように愛奈について考えてしまう。

「沢村翔太が、どこに潜伏しているか、か」
 
 すみれが、考えをまとめようとするみたいに人差し指で額を抑えた。

「少なくとも、この世界の沢村翔太の家、ってことはなさそうだね。
 家族がいてもいなくても、失踪したり死体が見つかったりしてるわけで、人目を集めやすい」

「ということは、その近辺というのもあり得ないだろうな」

「かといって、学生の身分でホテルみたいな宿泊施設っていうのも、考えにくいよね」

 僕らがそうであるように、彼も普通に働いたりはできないはずだ。
 一時的にはともかく、いつまでも身を隠し続けることはできないだろう。


622: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:17:23.72 ID:GsKuZ8lzo

「となると、どうなるの?」

「金がかからず、人目につかず、頻繁に出入りしたりしても誰にも怪しまれない場所……」

 僕の言葉に、あさひがひとつ条件を付け加えた。

「もうひとつ。死体を隠していても見つからないような場所」

「……そうか」

 沢村翔太は、この世界の沢村翔太の死体を校門まで運んだはずだ。
 そうなると、それまで彼は、その死体をどこかに隠していたことになる。

「でも、死体の隠し場所は、潜伏場所とは限らないんじゃない?」

「……たしかに」

「……そもそも、沢村はどうやって死体を校門まで運んだんだ?」

「そんなの……」

 沢村が車で身動きをとっている、という可能性もない。
 運転技術に関しては、年齢的には考えにくいが、べつにどうとでもなるだろう。
 ただ、その車をどうやって手に入れるのか、という問題が残る。

 もし盗んだりしたなら、そこからたちまち足がつくということも考えられる。
 
 車じゃないとすると……。

「鞄に詰め込んで、タクシーかなにかで近くまで移動した。そこから徒歩で移動した、とか」

「それは難しいと思う。沢村の死体は五体満足の状態で発見されたんだろうから」

「根拠は?」

「もしバラバラだったら、報道されてるはずだから」

「……」


623: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:17:56.57 ID:GsKuZ8lzo

 バラバラ殺人が起きると、ワイドショーかなにかではすぐに猟奇的だと騒がれるが、実際には違う。
 
 あれは、人間の死体をなんとも思っていないからできることだ、というわけではない。

 殺人の隠蔽を目論んだときにこそ、バラバラ殺人は意味を持つ。

 死体は重いし、そのまま運ぼうとすればどうしても目につく。

 車かなにかに隠すことができれば別だが、そうできないときは、鞄にでも詰め込んで運ぶしかない。
 
 そして、鞄に詰め込むなら、なるべく目立たないように、小さく切り分けて、少しずつ運んで隠すのがいい。

 死体を切り分ける行為は、人を殺してしまった人間がとる行動としては、かなり合理的だ。

 そうだ。そう考えると、逆に考えてしまえば。

「沢村翔太の潜伏場所は、学校から近いのかもしれない。車を使わなかったと考えると、だけど」

「学校の近く……。でも、そんなところに、死体を隠すようなところなんて……」

 ない、だろうか。
 死体は臭う。人が立ち寄る場所には隠せない。普段誰も近付かないような場所……。

 どこかに隠すとしたら、どうする? 



624: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:18:25.30 ID:GsKuZ8lzo

「……あさひ。沢村翔太は、どこで殺されたんだっけ?」

「……え?」

「夢で見たんだろ?」

「あ、うん……。どこかの、公衆トイレみたいなところだったと思うけど」

 公衆トイレ。

 沢村に死体を隠すつもりがなかったとしたら、
 死体は、沢村が移動するまで、ずっとそこにあったんじゃないのか。

 ……そんな考えは突飛だろうか?
 沢村は失踪したことになっていた。彼を探す人がいれば、近辺はくまなく探すだろう。

 ……そうだろうか?
 沢村が死んでいたと、そう知っていたのはあさひだけだ。
 
 ただの家出だと思われていたら、そんな詳しい捜索なんてするだろうか?

 ……今は仮説でいい。

「"学校帰りに刺された"。あさひはたしか、そう言っていたっけ?」

「……うん。そうだったと思う」


625: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:19:23.78 ID:GsKuZ8lzo

 この条件を満たしている場所はないか?

 学校帰りだと言うなら、学校の近く。そうでなければ、死体を運ぶのは難しい。
 死体があった場所から校門まで、沢村翔太は、おそらく背負うか何かして、それを運んだ。

 しかも、誰にも見咎められずに。それが可能な距離だった。

 そして、誰にも見つからないような場所。

 使われていないような公衆トイレ……あるいは、その近く。
 公衆トイレ……。近隣に、公園なんかはあるが、人通りがないわけじゃない。
 異臭騒ぎでも起きれば、すぐに死体は見つかるだろう。

 ……公衆トイレ?

「ねえ、あさひ、本当に公衆トイレだった?」

「……どういう意味?」

「それ、学校のトイレじゃなかったか?」

 僕の言葉に、あさひは静かに息を呑んだ。


626: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:20:03.85 ID:GsKuZ8lzo

「……わからない。視界、揺れてたし、暗かった。夕方だっていうのと、なんとなく、どこかの公衆トイレだったってことしか」

「ね、遼一。さすがに学校のトイレだったら、あさひでも気付くんじゃない?」

「男子トイレでも?」

「……そっか」

「……学校のトイレ、だったかもしれない。でも、どうだろう。断言はできない」

「でも、沢村翔太が殺されたのって、たしか七月の始め頃って言ってなかった?
 夏休みならともかく、生徒がたくさん出入りしているような場所で殺して、発覚しないもの?」

「あさひの夢の話だと、刺されたのは全部夕方頃だ。
 言葉に惑わされそうになるけど、七月の日暮れは遅い。空が赤くなったり周囲が薄暗くなったりするのは、
 おそらく六時過ぎから七時くらいだろう。そのくらいの時間なら、熱心な運動部くらいしか残っていないと思う。
 これは仮定だけど、もし沢村が校舎内の、あまり使われないようなトイレで殺されたとしたら、見つからない可能性はある」

「仮定、仮定ね」

「そもそも、断定できる根拠がないから、仮説くらいしか立てられない。
 それに外れていてもべつに損はしない。前と同じように、あさひの夢に出た場所に向かえばいいだけだ」

「わかってる。べつに文句はないよ」


627: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/06/23(金) 23:21:36.04 ID:GsKuZ8lzo

「でも、その仮説に従うと、沢村くんは、死体を学校のどこかに隠していたってことになるのかな」

「……でも、休み中ならまだしも、登校日でしょう? そんなに長い時間、隠しきれる?」

「ありえるかもしれない」とあさひは言った。

「あると思う。誰も近付かないような、死体の隠し場所。
 うちの高校、もともとは東校舎に部室棟があったんだ。でも、南校舎が新設されて、そっちに移った。
 老朽化が理由って話だったけど、東校舎は取り壊されずに残ってる。
 でも、本校舎からだと結構歩かないといけないから、あんまり人が近付かないんだ」

「だとすれば」と僕は言った。

「沢村翔太自身も、そこに隠れている可能性がある」

「ぜんぶ、憶測だけどね」と、すみれが言う。僕は頷いた。

「確認する価値はあると思う」

 誰も異論は唱えなかった。
 もちろん、これが全部、子供の遊びのような馬鹿げた仮説の上に立っているものだと、三人とも分かっていた。
 

630: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 23:53:41.35 ID:Vagz1NDvo



 沢村翔太について、僕が思い出せることはほとんどない。

 けれどあえて語ろうとするなら、彼は特に印象的な部分のない男子だった。

 風変わりなようにも見えなかったし、特に大きな問題を抱えているようにも見えなかった。
 どこにでもいるような、と言ってしまうと違うけれど、かといって、何か特別なところを感じたことはない。

 僕達は三人並んで高校に向かった。制服なのはあさひだけで、僕とすみれは私服姿だった。
 誰かに怪しまれたら一発でアウトかもしれない。

「いざというときは、街で偶然会った遼一に、わたしが用事を頼んだことにするよ」

 あさひはそう言ってくれたし、その言い訳は実際心強くもあった。
 そのくらいの理屈なら、ある程度通るだろう。

 ある程度、だけれど。


631: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 23:55:08.55 ID:Vagz1NDvo


 僕たちは昇降口から堂々と校内に入り込んだ。
 誰かに何かを言われるかもしれないとも思ったが、誰も何も言わなかった。

 それどころか、僕ら以外にも私服で出入りしている生徒はいるようだった。
 事件続きだというのに、警戒心が薄いものだ。

 それもまた、仕方のないことなのか。
 それとも何か、僕が知らないことがあるのか。
 
 どっちでもかまわないと僕は思った。

 あさひの案内にしたがって、僕らは東校舎に向かった。
 渡り廊下の先の扉には鍵がかかっていたが、彼女が少し揺するとすぐに開いてくれた。

「知ってる人は知ってるの」と彼女は言った。


632: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 23:56:16.54 ID:Vagz1NDvo

 そのまま進もうとして、僕は立ち止まった。

 先を歩いていたふたりが、僕の方を振り返る。

「……どうしたの?」

「二人とも、ここで待っててくれない?」

「どうして?」

「沢村はナイフを持ってる」

「だから?」

「一応、きみたちは女の子だし……」

「その細腕でフェミニスト気取り?」

 すみれの挑発に、僕は黙った。

「それに……」

「『それに僕は、死んだってかまわないから』って?」

「……そういう意味じゃないけど」

「あんたは怪我してる。一人の方が危ない。じゃない? わたしも行く」

 そう言って、すみれはあさひの方を向いた。

「あさひはここに居なよ」

「……でも、わたしが言い出したことだし」

「でも、あんた、とっさに動ける? 庇わなきゃいけない相手がいる方が危ないんだよ、こういうのは」

「……」

「決まりね」


633: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 23:57:07.27 ID:Vagz1NDvo



 あさひを校舎の入口に残して、僕とすみれは東校舎の中へと進んでいった。
 
「ねえ、遼一。本当のことを言うと、ひとりになりたかったんじゃない?」

「分かってたなら、叶えてくれてもよかっただろう」

「危ないってば」

「別に僕が死んだって、きみは構いはしないだろう?」

「ここまで来てそれを言う? 後味が悪いじゃない。わたしがあんたをここに連れてきたんだからね」

 僕らは廊下を歩いていく。すべての窓は板で塞がれていたから、人目を気にすることもなかった。

「こんなところで死んでらんないでしょう? わたしたちはこれからだって、心の底から笑える場所にいかないといけないんだからね」

 すみれの言葉に、僕は思わず笑ってしまった。

「遼一が笑った」

「そんなに珍しい?」

「とても」

「そうかい」

 どうでもよかった。ただなんとなく笑ってしまっただけだ。

「ねえ、すみれ。僕らはあの扉をくぐってきたわけだけど……
 あの女の子は、望む景色を見せるって、そう言ってたけど……」

「……それが?」

「僕らは、心の底から笑える場所に行こうって、そう話したよね」


634: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/07(金) 23:57:34.38 ID:Vagz1NDvo

 一階には、何もなかった。念のためにトイレも覗いたけれど、誰もいないし何の痕跡もなかった。
 階段を昇りながら、話を続ける。

「ひょっとしたら、ここがそうなのかもしれない」

「どういう意味?」

「つまりね、この世界では、僕は……『僕』は、心の底から笑っているのかもしれない。
 僕たちは、その景色を、たしかに、『見せてもらって』るんだ」

「……」

「だから、僕は思ったんだ。僕が心の底から笑うには、世界の条件を変えるしかないんだ。 
 とっくに手遅れで、そんな景色は、もともと僕がいた場所にはありえなくて、だから、僕はここに来たのかもしれない」
 
 すみれは何も言わなかった。二階もまた、一階と同じように窓が塞がれていて薄暗い。

「そんなのわかんないよ」とすみれは言った。

「でも、それはこんなところじゃないよ、きっと。わたしたちには分からないものが、きっと隠れてる」

「……そうかもね」

「わたし、けっこう後悔してるんだ。こんなのさっさと終わらせて、帰ろうよ。
 そうしたら、一緒にお茶でもしようよ。ね、遼一。わたし、あんたがいれば、そこそこやれそうな気がするんだ」

「……その言葉は、嬉しいけどね」

 でも、僕が思い出したのは、生見小夜のことだった。
 そういうものだ。

 僕たちは三階に続く階段を昇った。



637: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:39:27.50 ID:oH0qBvMao


 三階にたどり着いた瞬間に、空気がぴしりと音を立てて変わるのを感じた。
 
 具体的に何がどう違うというわけではない。
 
 ただ何かが決定的に変わっていた。
  
 閉ざされた窓、薄暗闇の廊下、ずっと続いている。

 教室の扉はすべて閉ざされている。
 誰の気配もない。

 ただいつまでも続いているのだ。

 やめておけばよかった、と僕はほんのすこしだけ思った。

 僕はこんなところに来るべきではなかった。
 僕はこんなところに来るつもりではなかったのだ。

「大丈夫?」とすみれが訊いてきた。何がだろう、と僕は思う。

「真っ青だよ」と彼女は言った。

 僕は首を横に振る。

 大丈夫? と僕は頭の中で繰り返した。


638: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:39:54.31 ID:oH0qBvMao

 僕はただ歩いていただけだ。
 何もおかしなところなんてない。

 すみれが喉を鳴らすのを聴いた。

 僕たちはただ廊下を歩いている。

 薄暗い、光の刺さない、埃っぽい空気。
 なんだか、少し前にもこんな場所を歩いた気がする。

 どこだろう。
 もしかしたら、あの地下貯蔵庫だろうか。

 この世界に来るときに覗いた、あの。

 僕は不意に、あのときに見つけたラテン語の本のことを思い出した。
 ただ箴言を並べただけのような言葉たち。
 
 今の僕は、いくつか、その言葉を思い出せるし、その意味も知っている。
 あのときは、不思議と忘れていた、というより、意識できなかった。そういうつくりなのだろう。

"In vino veritas."――酒の中の真実。

 酒の中。

 ワインの貯蔵庫。カタコンベ。あの暗闇、饐えた匂い。
 僕は一度、あの貯蔵庫の先にあった扉が、僕の望みだったんじゃないか、と、そう思った。
 
 さっきすみれに話したのだって、そういうことだ。


639: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:40:25.75 ID:oH0qBvMao


 でも、そうなのだろうか?
 
 そうではなくて、ひょっとしたら、あの光景こそが、僕にとっての真実だったんじゃないか?
 あの空虚、あの暗闇。

 あそこには愛奈の姿も、愛奈を思わせるものも存在しなかった。

 そして埃をかぶった本にはこんな一節があった。

"Peior odio amoris simulatio"――愛の見せかけは憎しみよりも悪い。
"Aliis si licet, tibi non licet."――たとえ他人が許しても、自分自身に許されはしない。
"Non omne quod licet honestum est."――許されることすべてが正しいとは限らない。

 あの光景は……僕が愛奈を、本当の意味で愛してもいないし、大切にもしていないのだと、突きつけていただけなんじゃないか。
 僕にとってはあの空虚こそが真実で、
 金を貯めるとか、愛奈と過ごすとか、そんなのはすべて言い訳でしかなく、
 僕はただ、愛奈を大事にするという大義名分の上に、自分自身の生を懸命に生きることから逃げているだけなんじゃないか。

 それを僕は心の奥底ではわかっているんじゃないか。

 そんなことばかりが、どうして頭をよぎるのか?

 最初から気付いていたからじゃないのか?

「……」

 不意に、僕は立ち止まった。
 気付いたのは、そうしてからだった。

「遼一……?」

 肩越しに振り返るすみれ。
 その向こうに、立っていた。

 沢村翔太だった。


640: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:40:51.97 ID:oH0qBvMao

 僕の視線の先を追って、すみれのからだがきゅっと小さく縮こまるのが分かった。
 僕はなんとなく、こうなるのが分かっていたような気がした。

「遼一」とかすかな声で彼女が僕のことを呼んだ。
 
「すみれ、悪いんだけど、やっぱり君はあさひのところに戻ってくれないか?」

「え……?」

「少しふたりで話したいことがある」

「でも」

「大丈夫だから」

 すみれはしばらく僕と沢村のことを交互に眺めていた。
 沢村はその間何も言わなかった。どこかに行こうともしなかったし、襲い掛かってくるようなこともなかった。
  
 どうしても納得がいかないような顔をしていたけれど、すみれは結局そのまま階段の方へと戻っていった。

「無茶しないで」と最後に彼女は言ったけど、僕がする無茶なんて何があるだろう。

 さて、と僕は沢村と向かい合う。
 
 沢村は黙ってこっちを見ている。

 鏡でも見ている気分だった。


641: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:41:20.36 ID:oH0qBvMao



「久しぶりだな」と沢村は言った。
 
「会ったばかりだろう」と僕は言った。

 沢村の様子は、僕がこちらに来る前と、なにひとつ変わっていないようにも見える。
 姿も、立ち居振る舞いも、何もかも。

「それもそうだな。痛かったか?」

「少しね」、と僕は言う。「でも、ほんの少しだよ」

「さっきの子は?」

「友達だよ。たぶんね」

「おまえはひとりじゃなかったんだな」
 
「そうだね。……ねえ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」

「そうだろうな」と彼は言う。「俺も話したかったのかもしれない」

「僕に?」

 いや、と彼は言う。

 誰かに、さ。


642: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:41:46.59 ID:oH0qBvMao

 きみは、ひとりでこっちに来たんだな。

「そうだな」、と彼は言った。「ひとりだった」

 いったい、いつこっちに来たんだ?

「それは、どっちの意味だ? あっちの時間か、こっちの時間か」

 両方かな。

「おまえがいなくなってから、三日と経っていなかったと思う。どうだったかな。一週間くらいだったかな。
 覚えていないな。なにせ、けっこう前だから。おまえはいつ頃こっちに来たんだ?」

 ついこの間だよ、と僕は言う。
 八月十八日。

「それはすごいな」と沢村は言った。

「一昨日じゃないか。ずいぶんこの世界に慣れてるな」

 そうか、と僕は思った。
 今は、八月二十日。

 それで、きみはこっちの、いつに来たの?

 そのズレが、僕の気になっているところだった。

「たいした時間じゃない」と彼は言った。

「ほんの半年前だよ」

 僕の疑問のひとつは、その一言で解けた。



643: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:42:31.20 ID:oH0qBvMao

 僕がこちら側に来る前、沢村翔太はまだあちらにいた。
 沢村がこちらに来るタイミングは、だとすれば、僕よりも後だったはずだ。

 にもかかわらず、どうして沢村は僕たちが来るよりも前に、人を殺せたか?

 簡単なことだ。

 こちらとあちらを行き来したとき、僕たちだって同じ日から同じ日に飛んできたわけじゃない。
 あの扉をくぐったときに、時間のズレがあるのだ。
 
 そして、沢村の場合は、僕たちよりも大きく過去にずれた。

 理由は知らない。理由なんてなさそうだ。

「それで、ここに来たのはどういう用件だ? というより、ここに俺がいるとよく分かったな」

 べつに確信があったわけじゃないんだけどね、と僕は言う。
 まぐれ当たりだよ。

 沢村は嘲笑した。

「やっぱりお前は、そういう奴だな」

 その言葉の意味が僕には分からない。

「それで、もうひとつの質問の方だ。用件は、いったい何だ?」

 僕は呼吸を整える。


644: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:43:01.72 ID:oH0qBvMao



「きみはいったい、どうして人を殺したりしたんだ?」

「やっぱり、止めに来たんだな?」

「少し違う。話を聞きに来た」

「返答次第じゃ、俺を殺さなきゃいけないからか?」

「……」

「そうなんだろ?」

「……」

「まあいいさ。なんだったっけ。どうして人を殺したりした、って?
 どうしてそれがわかったんだ? って、これは自白だな」

「知る限りだと、四人だ」

「……四人? どうして知ってる?」

「知ってる奴がいた」

「そうか……。まあ、そういうものかもしれないな」

「……それで?」

「なんだっけ?」

「どうして殺したか、って話」

「まるで審問官だな」

「どうでもいい」

645: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:43:28.27 ID:oH0qBvMao

「審問っていうのは、よくないぜ」
 
「……」

「審問っていうのは、つまり、善悪や当否を裁く側の人間の語法だ。
 客観性、公平性を拠り所に、他人の是非を決める立場の人間の話法だ。
 でもな、そんな俯瞰的な立場なんてありえない。客観性も公平性もありえない。
 にもかかわらず審問を行うとどうなると思う?」

「……」

「錯誤するんだよ。自分が裁く立場に値する上位者で、自分の判断が正当なはずだと誤解してしまう。
 だから、何かを裁くっていうのは地獄なんだ。自分がまるで、ひとつも瑕疵のない善人のような気分になってしまう……。
 まあ、俺が言えたことでもないけどな」

「それは自虐?」

「かもしれない。いや……こういう話をするときは、どうしても自虐的にならざるを得ないもんだ」

「でも、どうでもいいんだ。……どうして殺した?」

「その答えも、同じだな。『なぜ』なんて分からないよ。そうだろう?
 どうしてここに行き着いたかなんて、俺たちには分からない。俺だって、結果として人を殺した自分を知っただけだ」

「そういうので煙に巻かれたくない。教えてくれよ。なあ、きみは、生きてて楽しかったんじゃないのか?
 だったらどうしてこっちにいるんだ? どうしてこっちに来たんだ?」


646: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:44:00.75 ID:oH0qBvMao


「俺がそう言ったか?」

「……」

「生きてて楽しいって、俺が一回でも、俺の口から言ったか?」

「……なんなんだよ」

「べつにいいさ。どう思ってもらっても。俺がおまえを詰ったのは、ただ不幸ぶった顔つきが気に入らなかったからだよ」

「……」

「自分以外を馬鹿だと思って、平気で他人を侮って、そうして平気で羨むような、そんな拗ねた目が気に入らなかった。それだけだ」

「……」

「例の廃墟の遊園地。なあ、おまえもあそこを通ったんだろ? 俺もそうだよ。そこでざくろに会った。
 ざくろに会って、こっちに来た。あいつはとんだ詐欺師だよ。あいつには、望みを叶えるなんて器用な真似できやしなかったんだ」

「……どういう意味だ?」

「気付いてなかったのか? あいつは俺たちの望みなんて叶えちゃいないよ。
 あいつにできるのは、ただ、ふたつの世界を結ぶことだけだ。適当な口車に乗せておけば、
 こっちに来た段階で、乗せられた奴はこう思う。『ああ、自分の形がこういうふうに叶った世界なんだ』ってな」

「……どういうことだ?」

「分からないか? ふたつ、よく似た異なる世界がある。客はどちらかの世界から来る。
 すると、その変化に気付く。そしてその変化を、『自分の願望の投影』として解釈する。
 ああ、本心では自分はこういうことを望んでいたのか、と、勝手に受け取る。
 だからこの世界は俺たちにとって、事後的に『願いどおりの景色』に見えるんだ」

「……」

「本当はざくろにそんな力はない。あいつは、繋ぐことしかできない」


647: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:44:40.91 ID:oH0qBvMao


「なあ、そんなことはどうでもいいんだよ。どうして殺したりしたんだ?」

「分からないか? 本当に?」

「……」

「別に煙に巻きたいわけじゃない。それはそんなに難しい話じゃないからだよ。
 ただ、まあ、そうだな。順番に話そう。俺だってこっちに来てから、いろいろ見たよ。
 いろんなものを見て、いろんなことを考えた。そうしてそのうち嫌になって帰りたくなった。
 でも、改めて考えてみると分からないんだ。本当に俺はあっちに帰りたいのか? 帰ってどうするんだ?
 誰が俺を待っているわけでもない、誰も俺を求めちゃいない、そんな場所にもう一度帰って、平気で暮らしたいのか、って」

「……」

「答えはすぐ出たよ。別に帰りたくなんてない。どうだっていいんだ、こっちもあっちも」

「理由になってない」

「聞けよ。そうしているうちに、こっちで過ごしている俺の姿を見て、馬鹿らしくなったんだ。
 ああこいつはなんでこんなにばかみたいに笑ったりしてるんだろう、どうしてばかみたいに生きてるんだろうって。
 そうしたらだんだん憎らしくなってきた。感じないか? 俺の顔で、俺の声で、まるで楽しそうに笑う自分を見て、
 なあ、おまえなら殺したくならないか?」

「……他は」

「ん?」

「他の人たちは、どうして?」

「……ああ、なんとなく、個人的に、な」

「……」

「弓部玲奈、鷹野亘、寺坂智也……俺が殺した。理由に関しては言いたくないけど、そうだな。よくある理由だよ」

「よくあってたまるか」

「こういう状況になったら、俺でなくても誰か殺したくなるさ。だろう?」

「……」


648: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:45:07.84 ID:oH0qBvMao

「おまえを殺そうとした理由と、ほとんど変わらないよ。
 気に入らないから……あるいは……逆恨みって言ってもいい」

「そう分かってるなら、どうして殺した?」

「失うものなんてないからさ」

「だったら、殺さなくても別によかった」

「でも、殺しても別によかった」

「……」

「平行線だよ。これ以上は」

「……小夜は」

「……」

「小夜も、殺す気だったか?」

「……どうだろうな。おまえの次には、殺したかもしれない。
 そう言ったら、おまえは俺を殺してでも止めるだろう?」

「……」

「俺にはわからないな。おまえは全部持ってるようにみえるよ。
 俺が持ってないもの、全部持ってて、そのうえでそれを蔑ろにしてるように見える」

「……」

「俺はおまえみたいになりたかったんだ」

  ああ、本当に、鏡でも見ているみたいだ。


649: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:45:48.84 ID:oH0qBvMao




「安心しろよ。もう殺さない」

「……」

「今まで、たまたま誰にも見つからなかったから、続けてきただけだ。
 誰かに追われてまで、そんな面倒をしてまで、続ける気はない」

「それを僕は信じるか?」

「さあ。信じてくれてもかまわないし、信じなくてもかまわない。
 どっちにしろ、俺はやめるよ……とりあえず。あとのことは、ざくろ次第だな」

「……ざくろ」

「ああ」

「あの子は……何なんだ?」

「知らない。ただ、あるがままのものだと思うよ」

「……なあ、きみは知ってるのか? あっちに、帰る方法」

「……そうだな。知っている、と言えば知っている。ざくろに会えばいい」

「だから、そのざくろは、どこにいる?」

「あいつはどこにでも現れる。待ってりゃそのうち会えるだろう」


650: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/17(月) 23:46:20.07 ID:oH0qBvMao

「……きみは、どうする気だ?」

「言ったろ。ざくろ次第だって。でも、そうだな……。
 おまえは、殺してやりたいな。いつか、殺してやりたい。でも、とりあえずやめておいてやるよ。
 どうせ、死んだも同然の人間だ。野垂れ死ぬのを待つさ」

「……」

「おまえ、帰りたいのか?」

「……ああ、そうだね」

「だったらひとつ、教えておいてやるよ。ざくろに言えば、たしかにあっちに連れ戻してくれる。
 でも、さっきも言った通り、ざくろにできるのは繋ぐことだけだ。
 そして、俺やおまえがそうだったみたいに、ざくろの案内にしたがってあっちとこっちを行き来するとき、
 時間がずれるんだ。そのズレは、大きいときもあれば、小さいときもある。
 一週間で済むときもあれば、何年もズレることもあるらしい。言いたいこと、分かるか?」

「……」

「俺たちの肉体はそのままだ。そのまま、何年もずれ込むかもしれない……。
 それは、扉をくぐってみなけりゃ分からない。一種の賭けだな。
 つまり、俺たちはもう、こっちに来た時点で、ざくろの扉をくぐった時点で、俺たちは元通りになんて戻れない。
 そういうことを、よく考えておいた方がいいぜ」

「……覚えておくよ」

「そうだな。そうしてくれ。……それじゃあ、お別れだな」


653: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/30(日) 23:00:13.24 ID:bDeKvJGbo

 ◇

 その日の夕方、僕たちは碓氷遼一の姿を探した。

 彼の家の近くの公園に、僕らはまた訪れた。
 
 何度似たようなことをやっても懲りない。
 ほかの手段が思いつかない。

 公園のベンチには一人の女の子が座っていた。

 それは見覚えのある女の子だ。

 穂海だ。

 彼女は僕に気付いて、なんだか変な生き物を見るような目をした。

「お兄ちゃん?」

 穂海は僕のことをそんなふうには呼ばなかった。


654: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/30(日) 23:00:55.86 ID:bDeKvJGbo

 穂海。

 姉は愛奈の父親である元夫と離婚したのち、再婚し、穂海を産んだ。

 そして今、夫と、穂海と、三人で生活している。
 愛奈だけを残して。

 僕はそれをまちがいだと思った。

 そんなのはどこか変だ、いびつだ、おかしい、あってはならない、と思った。

 けれど……。

 どうして穂海がここにいるんだ?

 どうして穂海が僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだりする?

「お姉ちゃんは?」と僕は試しに聞いてみた。

「お姉ちゃん?」

 穂海は首を傾げる。

「……誰のこと?」

「誰って、愛奈だよ」

「……お兄ちゃん、どうしたの?」

 僕は立ち上がった。


655: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/30(日) 23:01:24.41 ID:bDeKvJGbo


「お兄ちゃん、その人たち誰?」

 穂海はすみれとあさひを見上げた。

 こんなに滑稽な話があるものだろうか?

 碓氷遼一がどうしてあんな人間なのか。
 どうして僕はあんなにも、彼に相容れない印象を覚えたのか。
 
 結局のところ何もかもがはっきりしていた。

 この世界には愛奈はいないのだ。

 愛奈がいない世界で、僕はずいぶん幸せそうだ。

 愛奈さえいなければ、何もかもうまくいったみたいに。

 きっと姉は、母との間に何のしがらみも持っていないだろう。
 穂海もまた、祖父母に愛されて過ごしているのだろう。

 この世界の僕は、僕として生きているのだろう。
 平然と。
 当たり前に。

 問題なんてなにひとつないかのような顔で。


656: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/30(日) 23:02:19.34 ID:bDeKvJGbo

 そんなことが許されていいのか?

 僕たちがその場から離れてすぐに、後ろから声が聞こえた。

 振り返ると、碓氷遼一がこちらを睨んでいた。
 少し、怯えているようにも見える。

 僕はその姿を、ただ、なんとなく、見つめる。

 赤の他人でも見つめているような、
 でもどこか、何か大切な、忘れてはいけないものが宿っているような、
 そんな姿を。

 彼は穂海の手を掴んだ。

 彼のような素直さで、僕は愛奈を愛しているのだろうか?

 僕と彼とで、何が違った?

 僕はどこで間違えてこんな生き物になった?

 どうして僕は、こんなところに来てしまったんだ?

 何もかもがわからない。


657: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/30(日) 23:02:45.78 ID:bDeKvJGbo



 その日の夜、僕らはあさひの家で休んだ。

 翌朝あさひは夢を見なかった。

 テレビのニュースでも、誰かが刺されたなんて情報は流れてこなかった。

「ねえ遼一、あのとき、あいつとどんな話をしたの?」

 すみれはそのことについて聞きたがったけれど、僕はうまく説明できなかった。

「でも、とにかく止まったみたいね」

 たしかにその通りだった。あさひはもう夢を見なくなった。
 でも、考えてみればおかしな話だ。

 どうしてあさひは、沢村の目線の夢を見たのだろう?

 どうして沢村が殺そうとした人々の夢ばかり見たのだろう?

 この街には、死んでしまう人間なんてたくさんいるはずなのに。
 これからも、たくさん死に続けるのに。
 どうしてあさひは、沢村に関わる死だけを前もって教えられたのだろう?

 きっと、どれだけ考えても、正解なんてないんだろうと僕は思った。

 世界がふたつある理由を、あのざくろという女の子すら知らないのかもしれない。
 
 僕たちは、「なぜ」を知ることができない。
 物事はいつだって、ただそうあるだけのもので、
 僕たちがしているのは、ただ解釈でしかない。
 
「とにかく、遼一が止めてくれたってことなんだよね」

 すみれはそう言って話をまとめた。

「違うよ」と僕は言った。

「僕は何もしてない」

 その言葉を言った瞬間、僕は本当に泣きそうになってしまった。
 僕は何もしていない。ただ振り回されていただけだ。


658: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/07/30(日) 23:03:13.56 ID:bDeKvJGbo




 僕たちはあさひのいれてくれたコーヒーを飲みながら話をした。
 これが夢だったらどんなにいいだろうな、と僕は思った。
 
「これからどうするの?」

 あさひにそう訊かれたときも、僕はうまく返事ができなかった。

「帰るよ」とかろうじて返事ができた。
 
 荷物を整理しなければいけないな。
 
「方法は?」

「分からないけど、でも、見つかると思う」

 そんな話をしながら、僕の頭をよぎっていたのは、沢村の言葉ばかりだった。

 元通りの時間に帰れるとは限らない。
 
 そもそも、帰ってどうする?
 お前は帰りたいのか?

 僕のことなんて誰も待っていないかもしれないな、と僕は思った。
 
 でも、それも仕方ないことだろう。
 いつまでもあさひに迷惑をかけているわけにもいかない。

「とにかく、探してみないことにはな」

「そっか」とあさひはあっさりと頷いた。

「いろいろありがとう。がんばってね」
 
 ありがとう、がんばってね、か。
 用済みって意味だ。

 なんて、そこまで卑屈でもないけれど。


662: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/19(土) 00:34:53.20 ID:h/9wnguTo




 僕とすみれはあさひの家を後にして、夏の街を静かに歩いた。

 誰も彼もが僕に比べるといくらかマシな顔をしているように見えた。
 程度の差こそはあれど、僕ほどろくでもない顔をしていそうな人間はそういないだろう。 
 なにせ、鏡を見なくても自分でそうだと分かるくらいなのだ。

 抱え込んだ荷物、着まわした服、充電の切れた携帯電話、MDプレイヤー。

 いつ戻ってきてもいい、とあさひは言った。
 あてがなかったら今晩だって、と。でも僕は、もうあさひの家には戻らないだろうと思った。
 二度とあさひに会うことはないだろう。そんな確信に近い予感が僕の胸のうちにはあった。

 僕とすみれはあてもなく八月の街を歩いた。

 空には押し潰したようなはっきりとしない灰色雲がのっぺりと広がっていた。
 太陽が隠れたせいでくすんだ街の色彩は、その雲と相まって平坦な印象をもたらした。

 陽の光が届かない空の底で、僕たちは迷子の蟻のように歩くのをやめられない。


663: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/19(土) 00:35:32.27 ID:h/9wnguTo

 沢村翔太が言っていた話を、僕はなぜかすみれにするつもりになれなかった。

 この世界の仕組み、ざくろのこと、沢村のこと、その全部が、言ってはいけないことのような気がした。

 ねえすみれ、きみはあっちに帰りたいか?

 そう訊ねてみたかった。

 あんたはどうなの、と、そう聞かれたとき、答えが思いつかないからだ。

 沢村は、ざくろには願いを叶える力はないと言った。
 
 ただ、世界がふたつに分かれていて、それを僕たちは願いが叶ったように錯覚しているだけだと。

 本当だろうか?

 なら、どうして、愛奈がいないんだろう?
 愛奈だけがいないんだろう?

 碓氷遼一がいた。
 沢村翔太がいた。
 篠目あさひがいた。
 生見小夜がいた。
 穂海さえも、そこにいた。

 それなのにどうして、愛奈だけがいないんだ?

 この世界がふたつに分かたれていることには、意味がないのだろうか?
 あるのだとしたら、どうしてそこに愛奈だけがいない?

 僕は、この世界から何を汲み取ればいい?

 どこにいけば――心の底から笑うことができるのだろう。

 僕は贅沢を言っているんだろうか。
 沢村の言ったように、僕はただ不幸ぶっているだけなのかもしれない。


664: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/19(土) 00:36:30.93 ID:h/9wnguTo

 僕がやらなければいけないこと。
 僕がしたいこと。

 僕が望んでいること。
 僕が欲しかったもの。

 そのどれもがなんだか、とても陳腐でありふれていて、簡単に掻き消えてしまいそうに思える。

 アーケード街の外れのコンビニに立ち寄って、すみれは久し振りに煙草を吸った。
 僕も一本分けてもらった。

 八月の終わり頃、もう景色は秋に近付いていく。
 街路樹の緑さえも、少しずつ褪せていく。

 でも、それは僕には関係のないことだった。
 
 夏が過ぎ秋が来ようと、それは僕には関係のない夏で、僕には関係のない秋だ。

 僕の居場所はここではない。

 でも、だったら、どこがそうだと言うんだろう。

 いったいどこに、僕の居場所なんてあるというんだろう。


665: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/19(土) 00:37:11.02 ID:h/9wnguTo

 僕は、愛奈にそれを求めていたのかもしれない。

 彼女が、僕の居場所になってくれること。
 僕を必要としてくれること。

 でも、愛奈もいつか、大人になるだろう。
 僕の力なんて必要としなくなるだろう。

 僕以外の誰かに手を差し伸ばされて、そっとその手を受け取るだろう。
 僕はそれを止められないし、止めたくもない。

 そうなるのがきっと、愛奈にとって良いことだから。
 でも、そのとき僕は、何もない僕は、どうすればいい?

 どこにいけばいい?

 誰がいてくれる?

 僕には何もない。

 僕は……。

 煙草が燃えている。灰になっていく。煙が体の中に沁みていく。
 それを眺めているだけだ。


666: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/19(土) 00:37:53.48 ID:h/9wnguTo


 不意に、風が吹き抜けて煙を巻いた。

 空耳だろうか?
 誰かが僕の名前を呼んだ気がした。

「どうしたの?」とすみれが言う。

 僕は首を横に振った。

「いや」

 空耳に決まっている。
 僕の名を呼ぶ人なんて、この世界には誰もいない。

 いたとしても、それは、僕ではない僕を呼んでいるだけだ。

 けれど、そのときもう一度風が吹いた。

 声が、何かの声が、耳に届いたような気がする。

「すみれ」

「ん?」

「いま、何か聞こえた?」

「……さあ。風の音なら」

「……そっか」


667: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/19(土) 00:38:20.50 ID:h/9wnguTo

 小夜啼鳥の物語を思い出す。

 僕は何を期待しているんだろう。
 作り物の夜鳴きうぐいす。ナイチンゲール。

 誰かが僕に何かを呼びかけた。
 そんな気がしただけだ。その声は、どちらにしても僕には聞こえなかった。

 ただ風が吹き抜けただけだ。

「――」

 そう思ったのに、不意に僕の視界を、ひとりの少女がかすめた。

 最初は勘違いだと思った。僕の知っている彼女と、着ている服が違ったから。

 でも、そうとしか思えない。僕は何かを言おうとして、すみれに声をかけようとした。
 そのときには、すみれが声をあげていた。

「――ざくろ!」

 僕達の前を横切っていった少女は、そんな声はまるで聞こえていないみたいに通りの向こう、人混みの中へと歩いていく。
 
 その後姿を、すみれは呆然とした様子で眺めていたけれど、やがてこらえきれなくなったみたいに駆け出した。

 僕は少しの間、どうしたものか考えた。すみれを追おうと思わなかったわけじゃない。
 でも、何かが僕の足を動けなくさせていた。

 身動きが取れるようになった頃には、すみれの姿は僕には見えなくなっていた。

 後ろから肩を叩かれたのもそのときだ。

 驚いて振り返った先に、さっき通り過ぎていったのと同じ顔がにっこりと笑っていた。

 黒衣のざくろだ。

「こんにちは」と彼女は言った。

 僕はその一瞬で、何かを悟ったような気になってしまった。

「こんにちは」と返事をした。


670: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:28:01.18 ID:Scz7BVnko



 さざめき立つ街並みの中で、僕達は灰皿を挟んで隣り合って並んだ。
 
 すみれのことを追うべきなのかもしれない。僕はそう考えている。
 この世界で一度はぐれてしまったら、僕は二度とすみれと会えないかもしれない。

 でも、追う気にはなれなかった。
 すみれが気にならなかったわけじゃない。でも、それ以上に、この子に確認したいことがあった。

「ずいぶんと久し振りな気がするね」

 手始めに、僕はそう声をかけた。

「そう?」とざくろは不思議そうな声をあげる。

「ほんの少しだよ」と。あるいは本当にそうかもしれない。

「僕はきみのことを探していたんだよ」と、そう言ってみた。
 でも、それは半分くらいは嘘だ。どうでもいいから、そう言ってみただけのことだ。


671: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:28:27.49 ID:Scz7BVnko

「いくつか質問があるんだけど」と、僕が言おうとしたのと同じことを、ざくろは僕に訊ねてきた。

「いい?」彼女は僕の方を見ていた。僕は少し考えてから頷いた。

「どうぞ」

「そう。ありがとう」

 彼女は僕にそうお礼を言ってから、手に持っていた缶コーヒーのプルタブをひねってあけた。

「あなた、何かした?」

「"何か"?」

 言葉の意味が分からず復唱すると、彼女はうかがうように僕の顔を見た。

「ううん。ちょっと変な感じがしてね。気のせいなのかもしれないけど、何かが入ってきた感じがしたの。あなたのところに」

「……何かって、何?」

「それがわからないから聞きたかったの。でもいい。知らないみたいね」

「……他の質問は?」

672: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:29:44.84 ID:Scz7BVnko

「うん。こっちに来て、どう?」

「どう、って?」

「楽しめてる? あなたの願いが叶った世界」

 ざくろは白々しく笑ってコーヒーに口をつけた。
 僕は溜め息をついた。

「僕の方からもいくつか質問してもいいかな」

「どうぞ」

「きみは誰?」

「わたし? わたしは、ざくろ」

「そう。前も聞いたね。すみれの妹さんも、そういう名前らしい。きみにそっくりだって」

「ふうん。そう」

 特に興味もないというふうに、ざくろはそっぽを向いた。

「それはそうでしょうね。だって、わたしがそのざくろだもん」

「……"どっち"の?」

「あえていうなら――」とざくろは素直に応じてくれた。

「あっちのざくろ」

「次の質問をしてもいい?」

「どうぞ」


673: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:30:57.39 ID:Scz7BVnko

「きみは何が目的で、こんなことをしてるんだ?」

「失礼な言い方。わたしはただ、みんなの望みを叶えてあげたいだけ」

「沢村翔太に会ったよ」

「……誰、それ?」

「きみが連れてきたうちの一人だよ」

「そう。そんな人もいたかも」

「彼が言うには、きみには人の望みを叶える力なんてないらしい」

「――」

 ざくろの表情が、ほんの少しだけ不快そうに歪んで見えた。

「きみにはただ繋ぐことしかできない。そう言ってた。僕にはよく分からなかった。でも、考えてみれば納得もいくんだ」

「……どうして?」

「僕と沢村が同じ世界にいたからだよ」

「……」

「僕の願いを叶えた世界と、沢村の願いを叶えた世界、そのふたつが一致していたからってわけじゃないだろうね。
 単に、きみが僕達を運べる先が、この世界がなかったから、と考えた方がしっくり来る」

「……」

「つまりきみは、僕たちをからかっていただけなんだろう?」

 ざくろは何も言わない。僕はそれを答えだと思った。


674: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:31:29.88 ID:Scz7BVnko

「昔ね、一匹の猫がいたの」

 ざくろは不意に、そう話し始めた。僕たちの周囲にはいまだ絶えない雑踏が当たり散らすように響いている。
 
「その猫を助けた女の子が死んでしまった。世界は女の子を失ったまま、ずっと続いていた。
 でもね、あるとき、ひとりの男の子が現れたの。その子は知らず知らず、ずっと後になってから、再びそこに立ち戻った。
 ……言っている意味、分かる?」

 何の話かはわからない。僕が首を振ると、ざくろはこう言った。

「一度去った時間を、再び訪れたの」

 ……つまり、過去に戻った、という意味だろうか。

「そしてその男の子は、ううん、その男の子じゃないんだけど、分かりやすく言うと、その男の子は、
 その女の子を助けてしまった。猫は轢かれて死んでしまった。それが最初」

「……」

「そのときから、世界はふたつに分かれたんだって。たくさんの場所を行き来したから、わたしはその光景を見ることもできた」

「……世界が、ふたつに分かれた」

「そう。猫が死んだ世界と、猫が死んでいない世界」

「そんなことがあり得るの?」

「それを問うことに意味があると思う?」とざくろは大真面目に言った。

「現にあなたは世界をふたつ眺めているのに?」

 僕は一瞬呆気にとられて、それから笑った。

「たしかにね」


675: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:32:06.87 ID:Scz7BVnko

「その男の子がそうだったように、あるいはわたしがそうなってしまったように、そういう不自然な力を持ってしまう人はたくさんいるみたい」

「不自然な力」と僕は繰り返した。不自然な力、不自然な力。

「ふたつの世界を繋ぐことができるのも、わたしが最初じゃないみたいだし。
 あの子たちはふたりでひとつだったから、片方が死んじゃってからできなくなったみたいだけど。それにわたしみたいに、時間までは変化しなかった。
 ああ、ううん。この今はまだ、彼女は生きてるか」

「……なるほど」

 さっぱりわからないけれど、理解できそうにもなかったので、わかったふりをして話を続けることにした。

「つまり、種は二つあるわけだ。不自然な力と、分かたれた世界」

「そう。おもしろいでしょう?」

「そしてきみの力は、世界と、時間を、移動する力?」

「そう。そして、誰かを巻き込むこともできる」

「当然、願いを叶える力なんて持っていないわけだ」

「そう。あの抽象的な世界のことは、わたしにもよくわからないけど、たぶん、あなたが言った通りのものだと思う」

 心象風景――。

 そして、ざくろの言葉が真実ならば、この世界の在り様は……。

「バタフライエフェクト」

「そう。なんだかあなたとは、趣味が合いそうね」


676: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:32:35.88 ID:Scz7BVnko

 初期値鋭敏性。
 
 猫が生きるか死ぬか、少女が生きるか死ぬか。

 その些細な変化から始まって、世界にはあらゆる変化が起きた。

 結果、この世界には愛奈がいない。穂海は当然に、この世界の僕と一緒にいる。
 
 穂海は穂海という名前で、僕は僕のままで、愛奈だけがいない世界。

 おかしな世界。
 不自然だという気もする。
 
 でも、そうと言われれば、そうとしか思えない。

 そこにざくろのような存在が介入する。

 あちらの世界から姿を消し、こちらの世界を訪れる人間が現れる。
 そうしてさらなる変化が加わる。

 互いが繋がった状態が、既にひとつの世界になってしまったように。

 これは悪意でもなんでもない、ただほんの少しいびつなだけの変化。

 この世界の僕は生見小夜と一緒に歩き、
 この世界のあさひは僕と同じ委員会ではなく、
 この世界の姉は僕たちと一緒に暮らしている。

 そのすべては、何の作為でもなく、ただ、結果的にそうなってしまっただけの話。


677: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:33:15.34 ID:Scz7BVnko

 きっと、そうなんだろうな。
 なるほど、としか今は思えない。

 分かっていたことだ。

 僕が生きていることにも、愛奈がいないことにも、なにか劇的な理由があるわけじゃない。

 僕はただここに来てしまっただけの人間で、そこには何の意味も理由もない。

 ここに来るべきではなかった。

「ねえ、あなたは後悔してるの?」

 僕は正直には答えなかった。

「そういうわけじゃない」

 でも、知らなければよかった、と思った。
 こんな世界が存在することを、知りたくはなかった。
 
 僕があんなふうに生きていた世界が存在することを、知らなければよかった。
 そう思った瞬間、僕の胸にふとひとつの疑問が浮かんだ。

「きみは……何がしたかったの? 本当に、僕らをからかっているだけだったの?」

 彼女は口を閉ざして、そのまま微笑みを浮かべた。


678: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:33:46.73 ID:Scz7BVnko

「……ねえ、帰りたい?」

「……」

「あなたは帰るべきだって、わたしは思う」

「そうかもしれないね」

「今、あなたを送り帰すことができる。どうする?」

「今?」

「そう。今。これを逃したら、いつになるかわからないし、わたしの気が変わってしまうかも」

「どうして、今、そんなことを言う?」

「もう十分に、堪能してくれたみたいだから」

「……すみれは」

「心配しないで」とざくろは言う。

「あれでもわたしの姉だもん。悪いようにはしない。すぐに帰ってもらう」

 そのときのざくろの笑みには、何か昏いものが含まれているように見えたけれど、僕にはそれがなんなのか、よく分からなかった。

「……帰るよ。僕も、帰るべきなんだと思う」

 そうだ。
 これ以上こんなところにいても仕方ない。
 この世界には、何の用事もない。僕の願いが叶った世界でもなんでもない、こんな他人事の世界には。


679: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:34:21.57 ID:Scz7BVnko





「少し、目を瞑ってくれる?」

 そう言って彼女は僕の手をとった。
 刺された傷が、今になってほんのすこしだけ痛んだ。

 瞼を閉ざす。

「開けて」と彼女は言った。

 そのときにはもう、僕はあの、一度見た奇妙な場所にいた。

 あの、地下貯蔵庫。

 背後には扉がある。
 
 あたりは真っ暗闇だ。

 ざくろの言葉を信じるなら、ここは既に僕の心象風景。

 このからっぽの真っ暗闇が。

「出口までは、案内してあげる」

 そう言って、ざくろは近くにあった燭台を手に取ると、マッチを取り出して火をつけた。

 あっさりとしたものだな、と僕は思った。
 そんなものなのかもしれない。



680: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:34:48.62 ID:Scz7BVnko

 ざくろの先導に従って、僕は歩き始めた。

 埃っぽい、黴臭い空気の中、僕は隣にすみれがいないことをほんのすこしだけ寂しく思った。

「すみれのことなら、大丈夫。わたしが全部伝えておくから」

 ざくろはこちらを見ずにそう言った。

「ねえ、沢村が言ってたのを聞いたんだけど、もうひとつ質問があるんだ」

「なに?」

「きみはたしかに、世界を繋ぐことができる。でも、その繋いだ先の時間は、大きくズレることがあるって」

「……うん」

 ざくろは否定しない。

「だったら僕も、元いた時間には帰れないのかな」

 ざくろは考えるような間を置いた。

「わからないけれど、でも、大抵の人の時間が大きくズレるのは、その人達が行きたい時間を持っていないからだと思う。
 だから、あなたの場合は平気だと思う。帰りは、もとの時間に行くことが多いの」

「もうひとつ、質問してもいい?」

「なに?」

「すみれと僕は、一緒に帰ることはできなかったの?」

「できなくはないけど……」ざくろは少し言いにくそうにした。

「でも、さっきは一緒にいなかったでしょう?」

 なるほどな、と僕は思った。

「さっきから、どうしたの?」

 ざくろはまた前を向き直った。僕は蝋燭の灯りがちらちらと揺れているのを眺めながら、言葉を続けた。 

「――きみは嘘をついているよね?」


681: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:35:41.13 ID:Scz7BVnko

 ざくろが、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情からは、何の感情も読み取れない。

「どうしてそう思うの?」

「そんなにたいした疑問じゃない。根拠も、そんなに多くもない。でも、さっきからきみの言葉は不自然だ。
 すみれと僕が一緒に帰れたなら、どうしてすみれと僕が一緒にいたときに姿を現さなかったんだ?」

「それは、たまたまはぐれたときに会ったから……」

「違うね」と僕は言った。反駁する隙を与えないように、口を動かす。

「きみは僕とすみれが別行動するタイミングを狙っていたんだ。僕がひとりになる瞬間を」

「……いきなりどうしたの?」

「そして、きみは僕だけを先に元の世界に帰してしまいたかった。僕が厄介だったんだ。
 すみれに対して何かをするために、きみは、僕にいられると不都合だった。違う?」

「……」

「いったい何をするつもりなんだ?」

「ここまで来て、今更それを言うのね」

「正直、してやられたよ。目を瞑るだけでここまで戻ってくるなんて思ってなかった。
 それに、気付くのも遅れた。だけど、さすがに見過ごせない。きみはいったい、何を企んでいるんだ?」


682: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:36:25.11 ID:Scz7BVnko

 僕は立ち止まる。ざくろもまた、僕を待つように足を止めた。
 暗闇の中で、彼女の姿の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がり、足元にだけ闇と同化する影を作っている。

 ふう、と短く、ざくろが溜め息をついた。
 ほんの少し、また、何かを考えるような間をおいて、彼女は口を開く。

「本当は、誰もに言いたい話ではないんだけどね」

 そんな前置きをしてから、ざくろがこちらを向き直った。

「言っても、ピンと来ないでしょうけど……あなたと一緒の時間にすみれが帰ってしまうと、少し困るの」

「……どうして?」

「わたしが死んでいるからよ」

 ざくろは表情もろくに変えずにそう言った。

「わたしは父に殺されるの。すみれがバイクでどこかに出かけているときに。
 ううん。あなたとすみれがこの世界にやってきた夜に、わたしは父に殺されたの。
 そして父に殺されてから、わたしはこういう存在になった」

「……」

 僕の頭は、その言葉の意味をよく理解できなかった。
 目の前にいる少女が、急に得体の知れない怪物のように見え始める。


683: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:37:02.52 ID:Scz7BVnko

「それは……おかしい」

「どうして?」

「きみがあの夜に死んで、そういう存在になったんだとしたら、おかしい。
 だって、きみはあれ以前からも、僕たちのような人間をこっちに繋いでいたんじゃないのか?」

 かろうじて頭を働かせながら、僕はどうにかそう訊ねた。
 ざくろの答えはシンプルだった。

「わたしは時間から解き放たれた。わたしの時間はもう、あなたたちと同じようには流れていない。
 普通の時間が一本の線だとしたら、わたしの時間は二本の線を無作為に行き来する、線と線とを結ぶ線。
 だから、あの夜にあなたたちと出会ったわたしは、あの夜に生まれたばかりのわたしではなかった」

「……言っている、意味がわからない」

「だからね、わたしはすみれを、あなたの時間に帰したくないの。
 だってそうでしょう? 自分が逃げ出している間に妹が殴り殺されていたなんて、そんなにショックなことはないじゃない?」

「……」

 僕はうまく答えられない。説明されたことのすべてが、なんだか本の中の出来事のように現実感を伴わない。

「これでいい? だからわたしはこう言ったの。"悪いようにはしない"って。だって、わたしのお姉ちゃんだもの」

 ざくろはそれだけ言うと、自分の言った言葉を振り払おうとするみたいに歩くのを再開した。

 僕はもう何も言わずに、彼女の後を追いかけた。


684: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:37:32.09 ID:Scz7BVnko

 そのとき、不意に僕の足が何かに躓いた。

 音に気付いたのか、ざくろは立ち止まってくれる。僕は蝋燭の灯りで、その何かの正体を見た。

 それは写真立てだった。
 中には、セピア色に褪せた一葉の写真が入れられている。
 僕は吸い込まれたようにその写真立てを手に取った。

 映っているのは、僕と、姉と、それから愛奈だった。
 
「どうしたの?」とざくろの声が聞こえた。

 不意に僕は泣いてしまいたくなった。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう?
 どこで間違ってしまったんだろう?

 それが、本当に、ただ、一匹の猫の生死を境に、食い違ってしまうだけのものに過ぎなかったのだろうか。
 そう思うとたまらない気持ちになった。

 姉さん。
 愛奈。


685: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:38:00.18 ID:Scz7BVnko

 巻き戻しの方法はないのか? やり直すことはできないのか?
 どうしてこんなことになってしまったんだ?

 僕はその場に膝をつき、写真立てを地面に落とした。
 顔をあげることもできないまま、ただぼんやりと、頭の中をさまざまな言葉がよぎるのを、ずっと止められずにいるだけだった。

 もう、どこにも行きたくないような気がした。
 ずっとこの場に、ただ蹲っていたい気分だった。

 僕は、ほんの少しの間だけ、本当に涙を流した。

 ふたたび僕が立ち上がったのは、何かの覚悟を決めたから、というわけではない。

 ただ、衝動のような強い感情が、胸のどこか昏い部分から、滲み出てくるのを感じる。

「ねえ、ざくろ――」

 僕の声は、自分でも分かるくらいに冷えていた。
 それでも、そうしないわけにはいかなかった。

 ざくろは、僕の言葉を待っている。何も言わずに、ただじっと待っている。
 だから僕は、もう体の内側にその考えをとどめ続けることができなかった。

「――ひとつ、お願いがあるんだけど」


関連スレ:開かない扉の前で【その1】
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